競馬で二十万すって、結婚前提で三年間付き合っていた彼女とも別れた。
ダブルパンチでダメージは相当。当てもなく休日街をぶらぶらしていたら、駅前でミニスカートのメイド服でチラシを配る女の子に遭遇した。メイド喫茶かなにかの広告かと思ったら、意外にもペットショップオープンのお知らせで、何気なく熟読していると、メイドが声を掛けてきた。 「興味がおありですか〜」 顔も可愛いが、声も可愛い。アニメのような声で甲高く続ける。 「今丁度、オープニングキャンペーン中でぇ、可愛い子、いっぱい揃えてますんでぇ、良かったらご案内しましょうかぁ」 無意識なのか、計算なのか、ぐいぐいと体を押し付けて話してくるメイドに、僕はまんざらでもなくなった。もしかして、ペットショップと言う名の、そういう類の店なのかもしれない。まだ昼を回った時間帯なので、些かそういった客引きには早い時間帯な気もするが。ヒマだし、店を覘くくらいならいいだろう。 「お願いします」 「は〜い。ではご案内しま〜す」 メイドがペチコート付きのバルーンスカートを翻して、僕の前をスキップする勢いで歩き出した。
案内されたのは、風俗店の立ち並ぶ一角で、薄暗くてとてもじゃないがキレイだとは言えない雑居ビルの五階。今にも壊れそうなエレベーター内の案内によると、ほとんどがスナック、居酒屋で、五階のみ「ペットショップ・オアシス」と書かれていた。店名からして、益々そういう店かと期待していたら、メイドが語尾を延ばす声で説明してくれた。 「当店は会員制となっておりますぅ。新規のお客さまはまずオアシス会員となって頂きましてえ、ペットをひとつ選んで頂きま〜す。ペットは最初に選んだ子のみで、後からの変更は出来兼ねますのでご了承くださ〜い。オプションにつきましてはぁ、先払いで限度額に応じて何度でもご利用頂けますのでご安心くださ〜い。では、こちらです、店内暗くなっておりますので、足元にお気をつけくださあい」 エレベーターの扉が開くと同時に、すぐ目の前に真っ赤なベルベッドの布の張られた扉が現われた。メイドがその、重そうな扉を押し開く。 「一名様、ご案内しま〜す」
店内は確かに暗かった。先を行くメイドの後姿を捉えるのがやっとだった。数メートル歩いたところで、彼女が立ち止まった。 「ではそちらのソファにお掛け下さ〜い」 レジカウンターらしきものが見え、その正面に二、三人ようやく座れる程度の扉と同じ赤いベルベットのソファがあった。客は僕しかいない。そのソファに、言われるまま腰掛けると、バインダーを手にしたメイドがすぐに現われた。 「では会員登録をさせていただきま〜す。お客様のお名前は?勿論、偽名でも結構で〜す」 「松浦千博」 「マツウラチヒロ様……、おいくつですかぁ」 「二十五です」 「好みのタイプはぁ」 「…小柄な方がいいです。あと垂れ目よりは吊り目の子の方が」 「犬派、猫派。どちらですかぁ」 「……猫派です」 「オスとメス、どちらがお好みですかぁ」 「お…オスとメス?」 後半の質問に、動じてしまった。好みのタイプはよいとして、犬派猫派は関係あるのだろうか?しかもオスとメスって…どう答えれば? 「…オスもいるんですか?」 「いますよ〜。ペットショップですからぁ」 「え…」 「ペットショップですぅ。こちらでは、お客様のご要望に応じて、お客様に相応しいペットを提供させて頂くサービスを行っておりますぅ」 僕は頭が真っ白になった。
風俗じゃなかったのか…
激しく帰りたくなったが、ここで逃げ帰って、このメイド姿の彼女に僕がスケベ心丸出しでのこのこついてきたと思われるのも体裁が悪いので、動揺を押し殺して答えた。 避妊手術とか考えるなら… 「じゃあ、オスで」 「ご予算は」 「安ければ安いほど」 「只今オープニングキャンペーン中ですのでぇ、ワゴンコーナーを設けさせて頂いておりますが、そちらをご利用になりますかぁ」 「ワゴンコーナー?」 「通常品より、70%割り引いた商品ですぅ。ただ通常品よりも遥かに質が落ちますし、欠陥も目立ちますね〜。余りおススメはしませんが、予算によっては、こちらを選ばれる方もいらっしゃいますねぇ」 ペットって、通常いくらくらいするのだろうか?しかし安くはないはず。僕は財布の中身を計算した。…競馬で負けたから、財産は残り少ない。やっぱり一番安いのがいいだろう。 「いちばん安いものでおいくらですか?」 メイドが手に持ったバインダーを繰る。 「そうですねえ、今なら二万円ってとこですかね〜」 「それにします」 「ありがとうございま〜す!今ならオプションを無料で三つまでお付けできますが、いかがいたしましょう?」 「じゃあお任せで」 「ありがとうございま〜す!ではこちらに住所の記入をお願い致しますぅ。三日以内に、商品とオプションを配送させていただきま〜す。オプションの追加等は、商品と同送させて頂く説明書に記されたメールアドレスにてご注文下さ〜い」 ペットを配送するのか。というか生き物って配送できるんだな。 狐に抓まれたような気分で、二万円を支払って雑居ビルを出た。なんだか夢のような出来事だった。 ペットなんて飼う気なかったのに。まあいい。どうせ彼女もいないんだし、ペットで癒しを得るのも手だ。 そんなことを呑気に考えながらアパートに戻った。
三日後、オアシスからペットが届いた。 すっかり半分忘れかけていたが、送り依頼主が「オアシス」となっているのを確認してようやく思い出した。両手で抱えられるくらいの大きさの箱だった。子猫にしては小さい気がする。軽いし、密封していて大丈夫なのだろうか?中で死んでたら嫌だなと思いながら開封した。中に入っていたのは、A4サイズの説明書と、餌らしきクッキーと瓶に詰まったミルクと、手の平サイズの瓶。その手の平サイズの瓶の中には薬らしきものが入っている。それらを除けると、いちばん底に、これまた手の平サイズのピンクのリボンで縛られた不透明な黒い袋が出てきた。それ以外、他には何も入っていない。 「え…ペットは?これだけ?」 もしや配送ミスだろうか?ペットだけ別便で送られてくるのかもしれない。とりあえず説明書を見ようと、黒い袋をテーブルの上に置いた。すると、黒い袋が急にがさがさと動き出した。 「えっ!?」 なんだ!?この中!?この中に子猫が!? ぎょっとして、恐る恐る袋の端を摘まんで持ち上げてみる。耳を近づけるも、鳴き声はしない。弱ってるのだろうか? そっと机の上に袋を置く。ゆっくりリボンを解く。袋を開く。中を覗き込むが、暗くてよく見えない。そっと中に手を差し込むと、何かに当たった。それを掴んで机の上に出した。 「………………えええっ」
机の上で横たわるのは、手の平サイズの黒髪の裸の子どもだった。
「えええっ!?」 僕は改めて、説明書を取り上げた。裸の子どもは、すやすやと机の上で呑気に寝ている。 猫じゃないじゃん! 慌ててA4サイズの説明書を繰る。最初のページには、こう書かれていた。 『この度は、ヒューマンペットをご購入頂きまして誠にありがとうございます。本製品はオプションの育成キットが必要となります。主に必要なのは、餌となる成長剤のクッキーとミルクとなります。それ以外にも様々な品を用意致しておりますので、詳しくは20ページ以降をご参照ください。 また、ヒューマンペットの特徴として、目覚めて最初に見た方を主人(=飼い主)であると認識するよう設定しております。彼らは無条件で主人を愛するようプログラムされております。 どうぞ、お客様好みのペットに仕立て上げて豊かな生活を…』
「えええ!?」 待てよ!?僕オス選んだよな!?それなら最初にメスを選んだ方がいいんじゃないか? そっと、まだ寝ているペットに近づく。とにかく、確認しよう。んで、オスなら返品してメスに交換してもらおう! 息を潜めて、寝息を立てるペットのマッチ棒のような右脚を摘まんだ。そのまま持ち上げる。 …なんか、エロいなこの図。などと思っていると、急にペットが身じろぎした。ぎくっとして僕は固まった。足を摘まんだまま。ペットの股間が見えた。ペットが目を開いた。自分の、取らされているポーズに硬直してから、僕の指に噛み付いた。 「あだだ!!」 「へんたいっ」 甲高い声で怒鳴られた。ペットが、黒い袋に逃げ帰った。袋で身を隠すようにしてから、そっとこちらを窺う。警戒しているらしい。 「ご、ごめんごめん。オスかメスか確認したくて…」 「れっきとしたオスだ!ばかごしゅじんさま!!」 ふーっと威嚇しながら、僕を見上げる。 ちっちゃ。 思わず失笑すると、ペットが益々怒った。細い腕を振り回して抗議する。 「はら、へった!めし、くわせろ!」 「生意気なペットだなあ」 ペットは喋らないから癒されるのに。これじゃあよその子どもを育ててる気分だ。 ペットに餌のクッキーを与えて大人しくさせてる間に、僕はオアシスに電話した。すぐに、例のメイドの甲高い声がした。 「ありがとうございますぅ、ペットショップオアシスでございま〜す」 「すみません、この間そちらで購入した松浦と申しますが」 「はい、松浦様。いつもありがとうございま〜す」 「ペットの交換をお願いしたいのですが」 「申し訳ございません、交換は致しかねますぅ。当社の製品は、初めに認識した主人のみにしか反応致しません。よって、今松浦様が購入されたペットを、他のお客様にお売りすることが出来ませんので、皆様に返品はお断りさせて頂いておりますぅ」 「そう、なんですか…」 がっかりして電話を切った。すると、クッキーを齧っていたペットが、僕の落ち込みを見てすぐに寄ってきた。 「…だいじょうぶか、どこかいたいか」 クッキーの欠片を手に、僕の指に擦り寄る。あ、ちょっと可愛いかも。 「ごしゅじんがたおれたら、おれのめしがなくなる」
…前言撤回。生意気なペットだ。
いやはや。
お久しぶりでございます。
本日は作品の裏話(言い訳とも言う)を少々語ろうかと。
色々手を出しておりますが、なかなか飽きっぽい性分でして
一つのお話を終わらせるのが苦手です…(>_<)
一つのお話を考えている最中に、別のネタを考えてしまうことが
しょっちゅうありまして、なかなか治りません。嫌な癖です。
「下町〜」とか、よく終わらせたなというのがホンネです☆
あと、タイトルについて。
特に意味はございません!(きっぱり)
深読みもなにも考えてません!
語呂とノリでつけてます(笑)
ちなみに、登場人物の名前もノリでつけています。
あ、でも登場する女子にはなるべく女っぽい名前を心がけています。
登場する男の子に、女名前付けるのが多いので(例:ノゾミなど)
はっきり区別するために、女子には変な名前をつけるようにしています。
さらに、こんなに猫を前面に押し出しているくせに
猫、飼ったことないです…
柴犬飼ってます。
すいません、こんな奴です。
そして、「vivid〜」はわたしの願望です。
こんなペットがいたらいいなあ、なんて。
こんな管理人ですが、
よろしければ、お付き合い下さいませ☆
腐女子バトンを、ベラ様よりいただきました☆ もっと頑張れ自分!!
では、スタートです!
「萌えるか萌え無いか、答えて下さい。」
01マンガ系:○ 花ゆめ系に偏る。「よろずや」とか「っポイ」とか「ソウルレスキュー」とか。今いちばんは「わんの実」 犬だけど☆
02アニメ系:? すんません、アニメ最近見てない…
03芸能系:○ コンビによるかも。チュートリアルとかロザンとかノンスタイルとか。昔シュガーライフってのがいた気がする。細身好き??
04スポーツ系: × リアルではあんま… 少年漫画のスポーツものは色々想像を掻き立ててくれますが。
05創作june系: × すんません、よく、知らないです…
06眼鏡:○ 気がついたら、眼鏡率高い!!いいですよね、眼鏡男子!ピンクとかオレンジの暖色系フレームの眼鏡とかしてくれたらもう!! ガリレオの福山はどうしたらいいんでしょう!?
07ひげ:× 苦手かも、です。あ、無精ひげはよいですな!もっさもさは苦手☆
08年下攻め:○ よいよ!よいですよ!後輩先輩大好き!寧ろ敬語じゃない方が好きだっ 09ショタ:? って、どんくらいからなんでしょう??小学生?
10鬼畜:○ 読む分には、結構好き。書くのは苦手ですが。攻め視点の鬼畜がよいですよ。
11幼馴染:○ 大好物っ!!昔から、他にないんかいっ! てくらい、幼馴染みものばかり書いてました。お隣さんがいいんです。両親いない間にお泊りとか。両親寝てる間にラブラブだとか。
12全寮制男子高校:○ 漢字並んでるだけで萌えます。なんでもありでお願いします。 13先生:○ 先生×生徒でも、生徒×先生でもOK☆ 学校ってなんて耽美な空間なんでしょう。放課後の教室とか部室とか生物室とか図書館とか音楽室とか体育館に閉じ込められちゃうとかセクハラ先生とかもうなんでもいいよ!教師っぽくない攻め先生に萌え。
14リーマン:? 実は、あんまし… 新入社員ならOK!年齢低めでお願いします!
15主従関係:○ イイですね!逆らえない感がたまりません。反抗するんだけど、逆らえなくて好きになってく系がね!
16誘いうけ:○ どんどん誘ってあげてください。攻めの皆様はお待ちしております。
17総受け:○ 大丈夫です。いや、結構、好き!みんなに愛されてください。 18天然:○ 天然攻めってありますか?基本天然キャラが好きかも。
19友情から発展:○ 昔からこのパターンばっかり書いてました。 友情重視!親友最高! とある事件をきっかけにふとお互い意識して気まずくなっちゃったりとか。友達に彼女できてから自分の気持ちに気づくとか。 20近親相姦:× あんまり…です。再婚して義兄弟になっちゃったなら、大好き。
21リバ:○ いいですね〜。いつか書きたい。
22june:× ごめんなさい。知らないです…
23b-boy :× 聞いたことありますが…
24gust:× う〜ん、これも知らないです… 25BEaST:× 知らないです…
26花音:× 聞いたことありますが…
27アンジェリーク:× 中学のとき、はまりました。そのときは腐要素もなにも考えてませんでしたが(笑)
28遙かなる時空の中で:× やったことないです。
29金色のコルダ:× やったことないです。
30ときメモ:× やったことないけど、名称は知ってる。
31すきしょ:× やったことないけど、名称は知ってる。やってみたい。
32学園ヘヴン:× やったことないけど、名称は知ってる。やってみたい。
33咎狗の血 :○ ケイ×アキで!!!
34オンリーイベント:× 知らないです…
35オンリーオベントにサークル参加:× ないですなあ
36コミケに行く:× 連れてけと頼んだら、お前は戦場に向いていないと、戦力外通告を受けたことが。
37コミケにサークル参加:× ないです…
38同人サイト:× 覗いてみたいです☆
39ペンネーム: ブログ始めた日、夕食後に、デザートで苺が出たから。
40同人小説執筆: 最近です。自分はもっと本を読むべきだと思う。
41同人漫画執筆: ないっす。
42イベント主催: ないっす。
43コスプレ: チャイナとミニスカサンタと看護師くらいなら。 あと何故だか、高校の修学旅行で、友人が持ってきた衣装を着せられた。何のキャラかは不明。マントがついてた。赤かった。
44お絵かきチャット: 面白そう。画力0でもできますか?
45仲の良さそうな男同士を見ると受攻を考える: そんなの、しょっちゅうデスヨ!!
最後に……回すひと お気に召された方は是非、持ってって下さい☆ このバトンを通してお友達が増えれば最高ですっ!!
いや、しかしつまらない回答ばっかですんません…!! こんな感じでよろしかったでしょうか??
とりあえず、いつまでも裸なのは可哀相なので、ハンカチをマントのように肩から掛けてやって包んでみた。ペットはそれを気に入ったのか、裾をひらひらはためかせて遊んでいる。 「これいいな。きにいった」 「そいつはよかった」 というか、このペットはずっとこの大きさなのだろうか?だとしたら、衣装に困る。ハンカチを大量購入しなければならない。僕はもう一度説明書を取り上げた。 『ヒューマンペットは、お客様のお好みに応じてサイズ変更可能です。一日に与えるクッキーの量に比例して成長します。クッキーを多く与えれば与える程、ペットは大きくなり、クッキーの量を減らすと小さくなります。ちなみに、初期設定は手の平サイズです。』 ページを繰ると、後の方にオプションの説明と、ペット用衣装の写真もついていた。 「衣装、売ってるのか」 着せ替え人形みたいだ。 感心していると、ペットが僕の手の平を叩く。しかし、マッチ棒の先端のような小さい手の平なのでダメージはゼロ。 「なに?」 「なまえ」 ペットが僕を見上げる。やけにきらきらした目だ。名前をつけてほしいのだろうか。「ペット」じゃ駄目か、やっぱり。 「名前か…。僕昔から名前付けるの苦手なんだよな」 過去の例を挙げてみる。お祭りで掬った金魚は「きんちゃん」。小学校でこっそり飼った野良犬は「のら」。同じく猫は、公園の裏で拾ったので「うらのら」。中学の池にいた亀は「こうら」、同じく鯉は「鯉1号、2号、3号」… 過去の自分を情けなく振り返っていると、ペットがまた手を突く。 「ごしゅじんのなまえは?」 「あ、僕?千博。松浦千博」 「ちひろ…まつ…ら…」 「千博でいいよ」 「チヒロ」 ペットがにっこり嬉しそうに微笑む。あ、やっぱしちょっと可愛い。流石、見目麗しく作ってるだけある。 「じゃあおれもちひろにする」 「え!?ちょ、ちょっと待って!」 それは困る。なんかややこしいし。ペットに自分の名前付けるなんて、なんかとてつもなく恥かしいような…。 僕は改めて真剣に考えることにした。何かヒントはないかと部屋中を見渡す。すると、机の上に放置されたままの、とあるCDショップの派手な包装袋がふと目に飛び込んできた。 「…黄色」 「ん?」 「………キイロで…」 僕の呟きに、ぺットが破顔した。 「きいろか!チヒロとにてる!」 ペットが、きいろきいろと呟いてハンカチを翻して机の上でくるくる回っている。 ま、まあいいや。喜んでるみたいだし。決定にしよう。
キイロが、テレビのリモコンのボタンに興味を示したらしく、ぽちぽち両手で体重をかけて押して遊んでいる。画面が変わるのを見て、おおっと驚いている。それを放置して、僕はキイロの衣装を選ぶことにした。いつまでもハンカチは可哀相だし。説明書を取り上げた途端、携帯が鳴った。すぐ近くにキイロがいたので、大音量にびくっとしている。そしてすぐに慌てて近くのペットボトルの陰に隠れた。 「大丈夫。電話だよ」 「でんわ…」 キイロが眉を寄せる。僕は電話について説明せずに、ディスプレイを見た。知らない番号だ。 「もしもし」 「松浦千博様でしょうか?」 聞き慣れない男性の声だった。営業慣れした感じの穏やかな低い声。 「そうですけど。どちら様ですか」 「失礼致しました。私、ペットショップオアシスのメンテナンス担当マネージャーの青柳と申します。先日、松浦様がご購入されましたヒューマンペットですが、ワゴンセール品で尚且つ欠陥品ということで、大変ご迷惑をお掛けしていると思うのですが…」 そういえば、欠陥品って言ってたな。詳しく聞いてなかったけど。 「欠陥って、どのあたりがですかね」 「おや、メイドは説明しませんでしたか。申し訳ございません。では、今からお時間大丈夫でしょうか?もしよろしければ、そちらに伺わせていただいても?よろしいですか?よろしいですね。では30分後にお邪魔致します」 返事をする前に通話が切れた。 僕は呆気に取られて、携帯を見つめた。なに今の電話。てか、なんかすんごい強引だ。 大丈夫か、この店。今更不安になってきた…。
そういえば僕は昔から親や先生に特に心配される子だった。近所の公園に遊びに行くにも、知らない人にはついて行ってはいけないと5〜6回、復唱させられた。遠足の時には、隣で手を繋ぐ女子は必ずクラスでいちばんしっかりした子が選ばれていた。中学のとき、帰り道に見知らぬおじさんに道を教えてと言われてその車に乗ろうとしたら、近くにいた友人から頭をはたかれ引っ張り出されて、後で母親に死ぬほど怒られた。それを懲りずに5〜6回繰り返すと、高校に行くにも、いつも近所の誰かと登下校させられることとなった。 という以上の事柄から、僕は人より警戒心というか危機感が少なくできているらしい。社会人になってから、一人暮らしを決めたとき、母親は猛反対した。が、僕の隣の部屋に中学時代からの親友の伊部が住むと聞くと、安心したらしく、ようやく許可してくれた。 まあ、今はその話はどうでもいい。問題は、オアシスの店員だ。 ここまで来るって? どうしよう。部屋片付けてないけど。 とりあえずお茶っ葉はまだあるのだろうか?よっこいせと立ち上がると、キイロが机の上で跳ねた。 「チヒロ!どっかいくのか?」 「え、台所に…」 「だいどころってどこだ。おれもつれてけ」 僕は、机の上で両手を上げて抱っこをせがむ子どものように飛び跳ねるキイロを見下ろした。そのまま、体を横にずらせて、すぐ後方のキッチンを指差す。 「すぐそこですけど」
キイロが机の端に座って足をぶらぶらさせている。 「はらへった」 「さっき食べたばっかだろ」 「おなかすいた!」 「どんだけ食うんだよ…」 小さいくせにすごい食欲だな。さっき開けた梱包された箱の中からクッキーを取り出そうとしたときだった。チャイムが鳴った。 「早っ」 もう30分経ったのか。とりあえずお茶はあったから良かったものの、見知らぬ人を招くのは何となく気が引ける。部屋汚いし。 玄関に向かおうとすると、またキイロが連れてけと喚いたが、放置して扉に向かう。 「はーい」 「突然申し訳ありません、オアシスの青柳でございます」 電話と同じ声が、扉の向こうから聞こえた。そのまま扉を開くと、そこには黒髪をオールバックに撫で付けてぴしっとした皺一つないスーツに汚れ一つ見当たらない革靴を履いて銀のアタッシュケースを持った、ペットショップ店員というよりは銀行員か保険の営業マンみたいな男性が立っていた。声と同様に穏やかな表情を浮かべて言った。 「この度はご迷惑をお掛けしております。ペットは中に?」 「はあ」 「ではお邪魔致します」 さくさくっと玄関に入り込んで、革靴を脱いで揃える。僕の部屋は、玄関からリビングがすぐに見える。青柳という男性は、すぐに机の上で足をぶらぶらさせているキイロを見つけた。意外だというように声を上げる。 「おや、オスをお選びに?」 僕は内側からドアの鍵を掛けながら、はあと曖昧に答えた。やっぱり変なのか、オス選ぶのは。 青柳氏が短い廊下を進みながら話す。 「まあ、色々な趣味をお持ちの方がいらっしゃいますから。当店ではお客様の様々なニーズにお答えするのが使命と考えておりますので、勿論他言は致しませんのでご安心を」 「はあ…」 オスを選ぶのが、そんなに恥かしいことなのだろうか?こっそり不安になりつつ、青柳氏にダイニングテーブルの前の席を勧めた。キイロが警戒心を露わにして、自分の名前のきっかけとなったCDショップの袋の中に逃げた。こっそり顔をちょこっと出しているのがこちらから見える。どうも、気にはなっているらしい。 狭い台所に立って、お茶の用意をしている間、青柳氏がテーブルの上でアタッシュケースを開けた。その中から、様々な大きさの箱やら瓶やら袋やらを並べ始める。 「猫のオスでしたら、この辺りの衣装がおススメですね。ほら、ちゃんと尻尾を通せる穴のついたズボンとか」 青柳氏が、その箱や袋の横に、小さい衣装を並べ出した。大の大人が着せ替えで遊んでるようにしか見えない。僕は複雑な思いで、彼の前に湯呑を置いた。その真正面に座る。 「欠陥って、どこなんでしょうか?」 「おや、しまった。今日はそのお話をさせてもらいに来たのでした」 しまったという表情をして、青柳氏が衣装をケースにしまおうとするので、ついでなので見せてもらうことにした。説明書で見るより、実際見た方が選び易い。 衣装を2〜3枚選ぶと、改めて青柳氏がケースからA4の書類を取り出して読み始めた。 「こちらの商品はですね、通常のものより愛情表現が屈折しているようですね。どうも初期段階のプログラム設定ミスがございまして、本来なら粗悪品として回収する予定だったのですが、丁度松浦様のお買い上げ直後に、その事実が判明致しましてですね。よろしければ今回だけ、特別にペットの交換をさせて頂こうと参ったのですが、いかがでしょうか?」 交換。思ってもいなかった言葉に、目を瞠った。 だったら丁度いい。メスに交換してもらえばいいんじゃないか。 だけど… 「…ちなみに、交換したあと、この子はどうなりますか?」 「そうですね」 青柳氏が、黄色い袋に隠れるキイロを見ながら言った。 「一度、中のソフトを交換して、再度設定し直すか、場合によっては破棄致しますが…」 キイロが袋の中に隠れた。怯えたように震えているのが袋の外からでも分かった。僕はそれを見ながら尋ねてみた。 「ちなみに、通常品とこの子の差異は如何程なんでしょうか?」 青柳氏が、お茶を啜ってから答えた。 「そうですね、通常品の場合は人に対して警戒心がございませんし、一切噛み付いたり反抗したり致しません。主人には常に愛情を注いで、主人の言うことを第一に守ろうとします。お客様によっては、購入したその日にコトに及ぶ方もいらっしゃるようですが。詳しくは、私どものホームページに、お客様のご意見板がございます。赤裸々なご意見が多数ですので、参考になるかと」 「……………コト?」 「はい」 「コトって…」 「性行為ですね。その辺りは特に精密に作られておりますのでご安心を。一応実験の結果、何度試されても一晩は耐える仕組みにはなっております」 失神しそうになった。
そういう、ペットか!!
そりゃ、オスはおかしいよ!メスに換えてもらうべきだ。 べきだけど。 袋を盗み見る。袋の端から見える黒い頭が揺れている。 僕は溜息を吐いた。 「名前」 「はい?」 青柳氏が、湯呑を掴んだまま語尾を上げた。 「名前、もうつけちゃったんで。いいです、この子で。僕、ペットに名前付けちゃうと、もう捨てられないんで」 ぱっと、袋の中で黒い頭が上がる。這い出てきて、僕の手の甲に体当たりしてきた。親指に、ぎゅっとしがみついてくる。 全然、愛情表現屈折してないじゃん。口は悪いけど。 「いいです、キイロで」 「さようでございますか!ありがとうございます!でしたら、松浦様には今後、特別会員として登録させて頂きます。この度は当方のミスでこのような事態に陥ったために、今後のオプション品はすべて無料でサービスさせていただきます」 思ってもみない出来事に、僕は目を丸くした。 「いいんですか」 「はい、勿論でございます。本日お持ちした品は全てお受け取りください。残りは配送させて頂きます。その代わりと言っては何ですが…」 青柳氏が初めて言い淀んだ。 「二週間に一度、メンテナンスを行うため、こちらに立ち寄らせていただいてもよろしいでしょうか?その時に、クッキー等、不足の商品をお持ち致します。そしてその時で結構ですので、今後の製品改良のためにも、こちらのアンケートにご協力お願いできますでしょうか」 ぴらりと、一枚のコピー用紙を渡される。 「これは…」 「こちらのペットに関しては、まだまだ未知数でして、言わば実験的な要素も含めて今後の参考にさせて頂こうかと。お客様によっては、ただ従順なだけのペットよりも、少しくらい反抗した方がいいと仰る方もいらっしゃいますので」
そうか。あの時の、メイドに着いて行ったときの僕の予想は外れてなかったわけだ。
アンケート用紙には、「行為後の感想」と記されていた。
揺れる電車内で、倒れないようしっかり吊り革に掴まって踏ん張っていると、唐突に訊かれた。 「ペットを飼い始めたのか」 「………うん、まあ」 「猫?」 「……うん、まあ」 伊部の質問に、曖昧な返答をすると、奴は吊り革に掴まったまま首を傾げた。 「『まあ』ってなんだよ」 「猫です。オス猫」 慌てて答えると、伊部はあそうとつれない相槌を打った。
仕事帰り、たまたま近くまで来たという伊部と一緒に帰ることとなった。 僕は役所に勤務しているので、帰宅時間が安定しているため、たまにこうして会社近くまで来た伊部と一緒に飲みに行くことが多い。 ちなみに彼はカメラマンか映画監督を目指していて、ちょこちょこバイトをしては遠出して写真を撮ってきたり、学生の映画サークルやアマチュアの映画関係者と共に短い映画を撮ったりしている。実家が金持ちだし、三男坊だからうるさく言われることもないらしい。 じっと斜め上の見飽きた顔を見つめていると、なんだよと睨みつけてきたので、溜息を吐く。 伊部に隠し事をしても仕方ないかもしれない。部屋隣だし、いつか絶対にばれそうだ… 「あのさ、やっぱうち来ない?見せたいものがあるんだけど」
家に帰ると、キイロが走ってきた。僕の左足にタックルしてくる。 「チヒロ!おそいっ、ごはん、あそべ」 「怒るのかねだるのかどっちかにしろよ」 苦笑して、靴を脱いで上がる。すると、キイロが僕の脱いだ革靴で遊びだした。 「遊んでもいいけど、ちゃんと後並べとけよ」 キイロは数日で、僕の膝の辺りくらいまで成長した。人間でいう3歳児くらいの大きさだろうか。夜のうちに体が伸びるようになっているらしく、驚異的な成長スピードに、朝目覚める度にどきどきする。食欲もどんどん増すし、クッキーだけで足りるのか心配になってきた。 スーツから私服に着替えたところで、晩御飯の材料を抱えた伊部が現われた。 「寄せ鍋」 「はいはい」 材料を手渡されて、頷く。奴は料理ができないので、材料を買ってきては僕に押し付けて作らせるというお坊ちゃま的発想の持ち主なのであった。伊部が玄関に入ってきた途端、キイロが近くの洗面所に逃げ込んで、こっそり伊部を窺っている。相変わらず、警戒心が強い。 伊部が先にキイロの存在に気づいた。 「あれ。なに、子ども?預かってるのか?」 「いいや」 「え、誰。あの子。お前、誘拐…?」 「してないから」 「あ、親戚の子か」 「ううん。説明するから、上がれよ」 伊部が首を傾げて僕の後についてくる。その前に、キイロがたたーっと廊下を走って、リビングのソファの陰に隠れた。 渡された材料をキッチンに並べて、寄せ鍋の下準備をしながら説明を始めた。伊部は興味があるのか、ソファにこっそり近づき、キイロを捕まえようとしている。 「その子、ペット。名前はキイロ」 「は!?ペット!?キイロってお前、もっとマシな名前―――あだっ!!!」 噛まれたらしい。伊部が右手を振って、痛覚を紛らわせようとしている。 「いてえ。噛んだぞ、こいつ」 「うん。噛み癖あるから気をつけて」 「言うのが遅い!」 「まあ、色々あって、駅前でメイド姿の女の子がビラを配ってて興味を引かれたのでついて行ったんですけれども」 「お前なあ、もういい加減いい大人なんだから、ひょこひょこ怪しげなのにくっついてくなよ!絶対、いつか痛い目見るからな!」 伊部が噛まれた箇所に息を吹きかけながら、もう何度目かになるか分からない忠告をしてくれた。 「はい、気をつけます。そんで、そこ入ったらペットショップだという説明を受けて、僕はてっきりそういう感じの風俗なのかと勘違いをして」 「風俗なら俺が連れてってやるから、ひとりで怪しげな店に行くな!」 「はい、気をつけます。そんで、なんだか流れでいちばん安いペットを購入したら」 「流れでペットを買うな!」 「気をつけます…。んで、この子が届いたと」 伊部が黙りこんだ。ソファに深く腰掛け、大きな溜息を吐く。キイロが僕の足元に近づく。ジーンズをきゅっと小さい手で掴んで、伊部を睨んでいる。 「あのひと、こわい。チヒロ、おいかえしていい?」 「うん、晩御飯食べたらな」 「追い返すのかよ!」
「猫かと思ったら、人型のペットが届いたってことか。ていうか、いいの?それ」 「本物の人間じゃない。人工的な、ロボットみたいなのらしい」 「そんなのあるのか。すごいな、日本。需要高まりそう」 伊部が、椀の中身に息を吹きかけて冷ましながら食べている。僕もその正面に座り、その僕の膝の上でキイロが興味深そうに土鍋を覗き込んでいる。 「で?飼うことにしたのか」 「うん。だって、粗悪品だからって破棄するなんて言うから。可哀相だろ。せっかく、苦労して名前も付けたのに」 「…苦労して名付けて、キイロ…」 伊部がなにか言いたげに呟いたが、無視することにした。 「ふーん、まあいいじゃん。面白そうだし。ペットって、もっと『ご主人様〜』とかそういうのかと思ったけど。なんか、こいつの場合、ひとり子どもが増えたみたいな感じだな」 「そう。将来のための勉強になるかも。伊部も飼ったらどう?」 「いいよ別に。子ども苦手だし。作る気ないし」 伊部が、箸で掴んだ豚肉を、キイロの目の前で見せびらかせてから自分の口へ運ぶ。子どもっぽい動作に、キイロがむっとしたように僕を見上げて目線で訴えかけてくる。僕は溜息と共に言った。 「…からかうの止めてやって」 「キイロのメシは?普通のやつでいいのか」 「いや、専用のクッキーとミルクがある」 「俺、やってもいいか?」 「おれ、チヒロがくれたのしかたべない」 「…生意気なちびっこだな」 伊部がキイロを箸で指すと、キイロがいーっと口の端を指で引っ掛けて伸ばしてみせた。
晩御飯の後片付けをしていると、伊部が興奮したように声を上げた。 「千博!!お前、このページ見た!?」 「なに?」 濡れた手を拭いて、彼のいるソファへ近づく。キイロは僕の部屋のベッドですやすや眠っている。 伊部が、青柳氏の置いていったオプションカタログのとあるページを僕に向けた。 「ナイトグッズ…」 「なにこれ、ペットってそういう役割も兼ねてるのか?!」 そのページには、よりペットとの夜を楽しむためのアイテムが十数ページに亘って記載されていた。 「猫耳とか、ナース服まで売ってるぞ。手錠も注射器も…。発情剤ってのまで」 僕が無言でいると、伊部がはっとしたように、僕の部屋のベッドの方をちらっと見てから、僕を見つめる。 「……千博、お前、まさか彼女に振られたからって…ああいうのに手を出したんじゃ」 「違うっての」 「いや、だったらなんでメスを選ばない!?オスだったらおかしいだろ」 「いや、流れで…」 「流れ!?流れで、オス選んだのか?」 「まあ」 僕が頷くと、伊部がなにか考え込むようにして黙った。 しまったな、これの説明もちゃんとしないと。僕は傍の机の引き出しから、A4のコピー用紙を取り出した。伊部に見せる。 「?…なに?」 「アンケート書いてくれって言われて」 そのアンケート用紙を見て、伊部がさらに固まった。 「これって」 「うん。ペットって、やっぱりそういう系だったみたいなんだよ。んで、キイロは欠陥品だから、オプションサービスする代わりに、このアンケート書いてくれないかって言われて、二週間単位で来るって言われて困ってるんだよ。 これってさ、別に適当に書いてもいいよな?」 「行為後の感想…」 「そう、感想もなにも。キイロ、オスだし。試そうにもちょっと無理あるし」 「何言ってんだよ」 伊部が、呆れたように声を上げる。僕は顔を上げて伊部を見た。伊部がまっすぐこちらを見つめていた。 「男同士でもできる」 「え、そうなのか。でもやっぱりそれはちょっとなあ」 「なんなら教えてやるよ」 「教えるって、そんな体育の実技みたいに………って、え」 ぐらりと視界が揺れる。天井が見えた。が、すぐに天井を背景に、伊部がこちらを覗き込んできた。 「えええっ!?」 どうやらソファの上に押し倒されたらしいと気がついて、僕は絶叫した。伊部が、僕の腹の上に跨がり、しっかり僕の両肩を掴んで起き上がれないようにしている。 「え、ちょっと待った、ストップ!伊部!」 「じっとしてろ」
そのまま伊部が、おもむろに伸し掛かってきた。
伊部が僕の首筋に顔を埋める。ぬるっと熱くて柔らかい感触が行き来する。ぞわっと全身に鳥肌が立つのが分かった。慌てて、真上の親友の胸を押し返す。しかし、奴の方が体格が良いので、ぴくりとも動かない。 「やめろっつの!退け!からかうのもいい加減にしろよっ」 「…いいじゃん。どうせ、彼女と別れてからしてないんだろ。不健康だなあ」 「心配してもらわなくても結構!ちゃんと自分で処理してますから!」 「よし、手伝ってやろう」 「いらんっつってんだろ!」 普段滅多に怒らない僕だが、あまりに伊部が調子に乗るので、頭に血が上って怒鳴りつける。しかし、そうすると益々伊部が嬉しそうに笑って僕のベルトを外そうとする。 「やめろ!本気で殴るぞ」 伊部は聞く耳を持たなかった。 伊部は昔から、からかい癖のある男だったが、僕が本気で怒るとすぐにやめてくれた。 中学のとき、見知らぬおじさんの車から救出してくれたのは伊部だったし、高校の登下校の7割は伊部が付き合ってくれた。一人暮らしすると決めたとき、じゃあ隣の部屋を借りると言ってくれたのも彼だった。ほとんど腐れ縁みたいなもので、こんな厄介な僕とも懲りずに付き合ってくれて本当に感謝していたのだが… 今回は冗談が過ぎる。 「いっ……」 下着の上から撫でられた。全身に悪寒が駆け巡る。思わず吐きそうになる。伊部の手首を掴んで、それ以上侵入されないよう、必死で止める。 「お前もちょっとは興味あるんだろ。だからオス選んだんだろ」 「ない、っての…」 勘違いするなと言いたかった。キイロを選んだのは、本当に偶々で、オスを選んだのも避妊手術を考えてのことだったのだ。 ――いや、ちょっと待て。今の台詞って。 僕は目を見開いて、真上の伊部を見つめた。 「――――お前、も?」 伊部が苦笑した。 「本っっ当に、鈍感だよな」 シャツを捲りあげられたときだった。
「チヒロ!!」 僕の部屋から、キイロが飛び出してきた。リビングのソファの上で暴れている僕と伊部を見つけると、猫のように俊敏に動いて、僕の真上にいる伊部の左腕に噛み付いた。 「あ痛ぇっ!!」 「チヒロいじめるな、ばかぁっ」 にゃあにゃあ喚いて、ソファの上から伊部を落とすと、今度は僕の首に抱きついて泣き出した。 「うぇ〜ん!チヒロ!」 「キイロ…」 キイロがわんわん泣いて僕の胸に縋る。その柔らかい黒い頭を撫でる。 「ごめんごめん、ちょっと遊んでただけだよ」 「チヒロ、怒ってたもん。困ってたもん」 「大丈夫、もう平気だよ」 「……あの」 ソファの脇に転げ落ちた伊部が、僕たちを見上げる。 「帰るわ」 「うん」 僕が頷くと、伊部ががっかりしたように肩を落とした。
キイロが僕の右手をしっかり握って、玄関のドア前に立つ伊部を睨みつけている。伊部が困ったように頭を掻く。 「すんごい嫌われたな」 「はやくかえれ」 「キイロ」 僕が窘めると、キイロが僕の影に隠れた。伊部が上着のポケットに手を突っ込む。 「じゃあな。また見に来る」 「うん」 頷くと、突然、左腕を引っ張られた。引き寄せられて、あっという間に唇を重ねられた。ぎょっとして慌てて体を押し返して唇を拭う。 「な、な、な……」 伊部が至近距離で、にやにやする。 「猫に取られる前に、貰いにくるよ」 「ばかっ!かえれっ!もうくるな!チヒロにさわるな〜」 間近で見ていたらしいキイロが、青い顔で伊部の足をぽかぽか殴って興奮したように喚く。僕は放心するしかなかった。 伊部がキイロの頭を軽く撫でてから、笑って出て行った。
その直後、僕が大きな溜息と共に廊下にしゃがみ込むと、キイロが慌てたように僕の首に抱きつく。 「だいじょうぶか、どこかいたい?」 よしよしと背中や頭を撫でてくれる。可愛い。自分の子どもがいたら、こんな感じなのかなあ。じっとキイロを見つめていると、キイロが大きい吊り目をぱちぱちさせる。 「チヒロ?」 「お前、いい子だなあ。欠陥品なんかじゃないよ」 よしよしと撫でると、突然、キイロがぽろぽろ涙を零したので、ぎょっとする。 「え!?なに!?おなか痛い!?」 キイロが無言で頭を横に振る。 「ちがう。……いいこっていわれたの、はじめて」 キイロが自分の袖口で涙を拭う。 「ワゴンのなかで、みんなからいわれた。おまえはだめだって。ふりょうひんで、けっかんひんだから、だれにもかってもらえないって。ごしゅじんさまになるひとなんて、あらわれないって。 おれたちはごしゅじんさまにあいされないと、そんざいいぎがないから、あとはこわされるだけだって。だから、ずっとおれは、こわされることしか、かんがえてなかった。でも、チヒロがきて、おれになまえつけてくれた」 「うん」 「すてられないって、いいこだって、けっかんひんじゃないって、いってくれた」 「…うん」 「だから、おれがんばる。はやくおおきくなって、チヒロをまもれるように、チヒロにあいされるようにがんばる」 「うん」 正直、僕にとっては、キイロはキイロだ。欠陥品だろうが完成品だろうが、一度飼うと決めたのだから、捨てる気など毛頭ない。 僕は小さいペットを抱き寄せた。 「心配するな。絶対に捨てないから。約束するよ」 キイロが僕の腕の中でこくんと頷いた。
仕事場から戻ると、キイロがリビングから走ってきた。僕の腰にタックルする。 「お帰り、チヒロ!お風呂にする?ご飯にする?それともキイロにする?」 「……どこで覚えたんだ、その台詞。そしてそのエプロンはどうした!?」 「アオヤギがくれた。たまにはシゲキテキな格好をしてご主人を迎えると、とても喜ばれるからって」 「はあ!?」 靴を脱いで上がりながら、声を引っくり返すと、キイロがしょぼんとした。 「チヒロ、この格好、いや?」 「いやっていうか…」 僕は結構好きな部類なんだけど、それ、女子がしてくれた方が尚良いんですけど。裸エプロン。しかも薄ピンクでやたらとフリルがついていてかなり乙女チックなもの。 「着替えておいで。お前は青柳さんに騙されている」 「そうですか。アンケート結果から、松浦様はコスプレが結構お好きだという結果が出ているのですが」 「……いたんですか。というか、勝手に入ったんですか」 なぜか洗面所から、ひょこっと青柳氏が顔を覗かせた。もう驚きはしない。何故ならもう3回目だから。 青柳氏が、てきぱきとリビングに向かいながら続ける。 「やはり、キイロは欠陥品だけあって、成長も遅いようですね、従来品であれば二週間で成人型になるのですが。一月半経ってもまだ、小学生低学年の大きさですね。どうしましょう、成長促進剤を投与してみますか?」 僕は部屋に向かった。リビングとの扉を開け放したまま答える。ネクタイを解いて背広を脱ぐ。 「いや、いいです。そのままで。薬とか使いたくないんで。気長に見届けます」 「…さようでございますか」 僕は着替えが早い。脱いだシャツと靴下を洗濯機に放り込むと、ちゃっかり青柳氏が僕と自分用にコーヒーを淹れていた。僕はちゃっかり席に着いてコーヒーを啜っている青柳氏を睨んだ。 「その、マグカップは?見覚えがありませんが」 「ああ、失礼。毎度毎度、淹れて頂くのも申し訳ないと思いまして。マイカップを持参致しましたので、ご安心を」 「さっき、そこの戸棚から出してませんでしたか?」 「毎度持ち歩くのも、結構邪魔になりますので。丁度そちらのスペースが空き地となっておりましたので、有効利用させていただきました」 もう驚きはしない。何故なら、そのスペースの隣には、青柳マイ湯呑が既に陳列しているから。 「もしかして、ここに住む気ですか?」 「滅相もございません!お客様のお家に住むなどと、そんな無礼は決して!」 マイカップを置いているだけで、充分失礼だとは思うが。まあいい。無料でキイロのクッキー貰ってるし。少しくらい、多めに見よう。 僕は彼の正面に座った。せっかくなので、淹れてもらったコーヒーを啜る。 青柳氏は、僕が一口飲んだのを見届けてから話し出した。 「ところで松浦様。アンケートに毎度記入して下さっているのは結構なのですが」 僕はぎくりとした。カップを抱えたまま、ちらりと青柳氏を盗み見ると、ばっちり目が合う。慌てて逸らすと、相手が溜息を吐いたのが分かった。アンケートのコピー用紙を、机の上に並べる。 「毎度毎度、『最高』では困ります。もっと具体的に書いていただかないと、参考になりません」 「駄目ですか」 「駄目でございます。もっと感度を上げて欲しいとか、性感帯を増やして欲しいとか、喘ぎ声のバリエーションを増やして欲しいとか、そういう感想を頂きたいのです」 僕が黙り込むと、青柳氏がぽつりと言った。 「というか、松浦様。まだキイロに手を出していないようですね」 「……だって、小学生ですよ」 「お好きな方もいらっしゃいます」 「僕はお好きじゃありません」 「ではやはり促進剤を」 「結構です!」 僕が怒鳴り返すと、青柳氏がはっとしたように、声を低めた。 「もしや、不感症…」 「違いますっ」 急いで答えると、またもや青柳氏が続けた。 「私、メンテナンスマネージャーと致しまして、ペットたちのカウンセリングも行っております。勿論、キイロにもです。彼に聞いたところ、『チヒロはまったくおれに手を出そうとしない。自分に魅力がないからかもしれない』と憂いておりました。そこで私は、彼の魅力を引き出そうと裸エプロンをおススメしてみたのです」 「あんた、結構楽しんでますよね、この職業」 「さて、お気づきでしょうか松浦様」 「なにがですか」 僕が眉を寄せると、青柳氏が穏やかな表情でにっこりと笑った。 「当社のオプション品が、ヒトにも有効だということは、パンフレットに記載していたと思います。ペットは購入せず、オプション品のみ購入される方も大勢いらっしゃいます」 「そうですね。掲示板、ちらっと見ました」 「オプション品は全てご覧になりましたか?」 「見てません。僕、分厚い本、苦手で」 「おや、それは残念」 青柳氏がにっこりした瞬間、唐突に視界が歪んだ。思わず、机に掴まろうとするが、その前に床に崩れ落ちた。なんだ、めまい?立ってられない。 僕の倒れたすぐ傍に、青柳氏のスリッパが見えた。顔を上げる。顎を掴まれ、顔を覗き込まれる。 「本日は実際に体験されてみては?」 「……コーヒーに、なんか入れたんですか」 僕の質問に、彼はにっこりするだけで何も答えない。最悪だ。
ぐいっと体が引っ張られる。抱きかかえられるところまでは分かった。 その後は、覚えてない。
気がつくと、自分の部屋のベッドの上だった。頭と体が重い。風邪をひいた時のように、全身気だるくて熱い。起き上がろうとして、起き上がれないことに気がついた。腕が、手が使えない。何故なら、両手首は、自分の背中でがっちり縛られていたからだった。指で触った感触からすると、さっき僕が解いたネクタイで縛っているらしい。気合を入れて、片肘をシーツに突っ張るようにして上半身を起こすと、すぐ近くに、身を丸めたキイロがすやすやと眠っていた。まだ裸エプロンのままだ。着替えさせてやらないと、風邪をひく。 「青柳さん?冗談は止めて、これ解いてください」 閉まったドアの向こうに声を掛けるが、返答はない。不審に思って、そのまま立ち上がってドアに近づく。後ろを向いて、ドアノブを掴もうとしてから、ベッド脇のボードにメモが置いてあることに気づいた。 『有効時間は三時間です。ご感想、ご意見はこちらにどうぞ。では、失礼致します。―――青柳』 「なんの…?」 一体何の薬を飲まされたんだろう?睡眠薬にしては、効果が短すぎる気がするし。ていうか、青柳さん帰ったのか。ヒトを縛っておいて放って帰るなんて、なんて無礼な人だ。 仕方ない。キイロに解いてもらうしかない。僕はベッドに近づいた。 「キイロ。起きろ、風邪ひくぞ」 「ん〜…」 キイロが、呻きながらこてんと寝返りを打つ。駄目だ。しばらく起きそうにない。この子は、猫気質の所為か、異常に眠りが深いのだ。一度寝るとなかなか起きない。 「…困ったな」 ぽつりと呟いて、ベッドの端に座ったときだった。ようやく、違和感に気づく。 「え…」 ジーンズの、股間の部分が濡れていた。まるでおもらしした子どものように。余りの衝撃に、硬直する。 「嘘」 慌てて、さっきまで寝ていたベッドの上を調べるが、恥かしい染みはどこにも見当たらない。念のため、キイロを退かせて調べてみたが、なにもない。 後ろ手で縛られているため、確認できない。が、僕は1サイズ上のゆるめのジーンズを好む為に、脱ごうと思えば出来る気がしたので、頑張ってみる。 「よっこい…せ…」 足を振って、ベッドの下にジーンズを落とす。下半身は下着一枚という間抜けな格好になる。そのまま、改めて確認すると、やっぱり下着も濡れていた。薄々は感づいていたが、それを改めて見て、思い知った。 きっと、コーヒーに入っていたのは、発情剤とか、そういった類のやつだ。ジーンズを脱いだとき、微かに当たっただけでも反応したらしく、しっかり勃ち上がっている。 「……困った」 一瞬、伊部に助けを求めようかとも思ったが、なんだかこの現場に踏み込ませるのは、恐ろしく危険な香りがしたので、止めることにする。 部屋を見渡してみたが、携帯も見当たらない。恐らく、リビングだろう。が、この状態では電話もできない。青柳氏に文句を言うこともできない。とりあえず、ネクタイを解いてもらわないと。ということは、やっぱりキイロに起きてもらうしかない。僕は改めてキイロに近づいた。 「キイロ、起きろ。キイロ、メシだぞ」 「…ごはん…?」 「そう。今日は特別にジャムをつけてやる。ミルクに砂糖いれてやる」 「起きる…」 むくりとキイロが体を起こした。右手で目を擦っている。欠伸をひとつしてから、ベッドの上の僕を見上げた。 「おはよう、チヒロ。ごはんは…?」 「うん、やるから。とりあえず、これ、外して」 キイロに背を向けて、縛られた両手首を示す。すると、キイロが首を傾ける。 「これ、なに?」 「解いて」 「ほどくって、なに?」 「あの、ほら、僕今両手使えないだろ?ご飯、やれないから、そのネクタイ外してほしいんだよ」 「外すって、どうやるの?」 「だから…。なんか、ほら、端っこ見つけて」 やばい。これは時間かかりそうだ…
僕の背中で、キイロが苦心してネクタイと格闘している。というか、さっきよりきつくなっているのは気のせいだろうか、気のせいであって下さい。 「あの、キイロ?」 「ああ!動いちゃ駄目!ほら、またこんがらがった!」 キイロが喚く。僕は溜息吐いた。同時に、キイロが欠伸する。 「眠い。お腹、減った…」 「がんばれっ」 「これ、解かないと駄目?」 「駄目っ」 「飽きた」 「飽きちゃ駄目だっ」 「疲れた」 「頼むよ、キイロしかいないんだよ」 「おれしか?」 「そう、頑張れ!頼りにしてる」 「分かった」 キイロが背後で、力強く頷く気配がした数分後。
「……………」 「……キイロ?」 寝息が聞こえてきた。 「キイロっ!起きろーっ!寝るな頼むから!」 僕の願いは届かず、寝息は一層深まる。キイロは僕の背中に凭れかかって、暖を求めるかのようにくっついて丸くなる。同時に、どきっとする。密着した部分が熱くなってゆくのが分かった。慌てて離れる。が、すぐにくっついてくる。その内、右脚にキイロがくっついて眠り始めた。まずい。裸の部分はまずい。今現在、僕の右脚はジーンズを取っ払ったために無防備であり、キイロもエプロン部分以外は裸である。僕の右脚を、抱き枕代わりにしてキイロが眠っている。 柔らかい頬と、髪が太腿に当たる。滑らかな傷ひとつない手足が絡む。非常にまずい。その気がないとは言え、今の僕は赤頭巾に登場する狼に近い。自分でも嫌なほど、よくわかる。心臓が痛い程跳ねる。体も熱い。足を振って逃れようとしたが、しっかりキイロが絡み付いて離れない。 「マジで…」 僕はベッドに両足を投げ出して座ったまま、部屋の壁に寄りかかった。息が上がっている。 トイレ、行きたい。触って擦って扱いてさっさと出したい。拷問だ、これ。 「ん…」 なんとか、ならないだろうか。ぼんやりした頭で部屋中を見渡す。なんでもいい。手が使えなくても刺激を与えられたら。 下着の中が、益々屹立したのが分かった。思わず、目を背ける。うわ、すんごいかっこ悪いこの状況。 と、すぐそこにキイロの頭が見えた。 ……いや。絶対、駄目。だって見た目小学生だし。 「んん…」 僕の決心とは裏腹に、僕の右脚にキイロが顔を擦りつけてくる。確信犯かと怒鳴りたくなるのを、どうにか堪えた。 息が、上がる。心臓がうるさい。我慢できず、空いた左足で何度もシーツを蹴る。自由の利かない両手の指先が、シーツをきつく掴む。 その時だった。 「う、あ…っっ」 びくんと体を反らせて仰け反る。驚いて、後ろの壁に後頭部をぶつけた。痛い。が、同時に強烈な刺激が全身を貫いた。 「あ、ちょ…っ、あっ」 自分でも聞いたことのない、甘い声が喉から走り出た。思わず、腰が浮き上がりそうになる。 キイロが、無意識に僕の太腿を噛んだのだった。何度も甘噛みを繰り返される。 忘れてた。噛み癖あったんだ、こいつ。 慌てて逃れようとするも、一向に離れようとしない。いっそのこと、左足で蹴り落とそうかとも思ったが、しばらくすると、キイロは噛むのを止めた。 心臓が暴れ馬のように跳ねる。全身、うっすら汗ばんでいた。息が、全力疾走したかのように荒い。 限界だった。
「キイロ」 身を屈めて、なるべく静かに穏やかに起こす。キイロが、うっすら目を開けた。寝転んだまま、目を擦ってこちらを見上げる。 「チヒロ…。ごはん?」 「うん。ごはんは…後で、あげるから…、お願いが、あるんだ…」 僕の尋常でない様子に気づいたのか、キイロがさっきとは違い、俊敏に身を起こした。 「どうした、なにかあったか?」 「あのな、目瞑って…、手、出して…」 「手?」 キイロが首を傾げる。僕の表情を見て、泣きそうに顔を歪める。 「どうした?どこか、痛い?辛い?」 「大丈夫…、あのな、キイロしかできないことだから…、ちゃんと聞いて」 「うん」 キイロが真剣な表情で頷く。これから行うことを考えると、僕は死にたくなった。
俯いて、必死に耐える。妙な声がせり上がってくるのを、シーツを掴んで堪える。左足の踵で何度もベッドの上を擦る。腰が、無意識に揺れる。 「あっ、ふ……!ん…っ」 「ち、チヒロ…、い、痛いの?」 キイロが不安げに、僕の胸の中で声を上げる。顔を見られたくなくて、僕はキイロの顔を上半身に押し付けて、決して顔を上げるなと言い含めた。 「……だ、いじょうぶ…。続けて」 「でも」 「…いいから。して…」 自然、甘く囁く形となる。キイロの全身が揺れる。慌てたように、稚拙な愛撫が再開される。緩やかだけど、良かった。小さい手で一生懸命上下に動かしてくれる。濡れた音と、僕の荒い息遣いで部屋中が満たされる。 「はっ、はっ、…あ」 緩やかな刺激で、なかなか強烈な快感が訪れない。焦らされているような愛撫。気が狂いそうになる。 「あ、あっ、あ…ッ」 「チヒロ、やっぱり…」 「…顔、上げるな……」 見られたくない。こんな情けない姿。僕は何度も唾液を飲み込んだ。 早く早く早く。 早く解放されたいのにっ。 「ん、は…っ、はっ」 なんでだよっ、なんでこんな今日に限って保つんだ。 キイロが、困ったように小さい声でおそるおそる尋ねる。 「チヒロ…」 「…ん?」 「疲れた。左手にしてもいい?」 「うん…」 僕も疲れた。こてんと頭を、キイロの右肩に乗せる。 「…ごめんな」 囁くと、キイロの肩がぴくんと跳ねた。くすぐったかったのかもしれない。 おずおずとキイロが尋ねてきた。 「チヒロ、噛んでいい?」 「……は?」 噛む?キイロの右肩に額を乗せたまま、目を見開く。 なんでと尋ねる前に、強烈な刺激が来た。 「あッ!!痛って!!」 唐突に、右首筋に痛みが走った。 噛むって、そこ!? 今までの甘噛みとは違う。本気で歯を立てられる。八重歯が食い込んでかなり痛い。 「いッ、キイ、ロ…っ」 首筋に噛み付いたまま、キイロが左手を動かす。 今までに、感じたこともないような衝動が突き上げる。堪え切れずに、シーツを引っ掻く。喉をさらけ出す。 「あああっ!!―――ッ!」 ぎゅっと、両手と足の指がシーツを掴む。浮き上がりそうになる体を、必死で押し留める。 堪えよう、と力を入れる前に解放される。 「は、…っあぁ…」 浅くて短い呼吸を繰り返すと、キイロの声がした。 「チヒロ…、これ、…なに?」 答える気力もない。ぐったりと、ベッドに横になると、うっすらキイロの顔が見えた。 珍しそうに、自分の手の平を眺めた後、べろりと舐めるのが見えた。
しまった。舐めてはいけないと教えるのを忘れた。
駅前の雑居ビルの5階の、ペットショップオアシスに向かうと、以前と同じメイドが受付にいて、僕をVIPルームに案内してくれた。 VIPルームと言ってもそんなに広くはない。スタッフの休憩室くらいの広さで、ただきちんとした応接セットが真ん中に並んでいるだけの部屋だった。その黒い革張りのソファに腰掛けると、すぐに目的の人物が現われた。 「おや、松浦様!わざわざご足労頂きまして」 「お金払います」 僕が開口一番、そう切り出すと、青柳氏はソファに座る直前の格好で固まった。 「…どういうことでしょうか?」 「今までのオプションの代金、支払いますから、もう家に来ないでください。アンケートも答えません」 「な、なぜですか」 僕は珍しく動揺を見せる目の前の強引な営業マンを見据えた。 「あんた、自分のしたこと覚えてないんですか?訴えられるようなことしておいて」 「心外です。私は松浦様に、より商品の性質を知って頂くために…」 「コーヒーに薬入れて縛って帰っちゃったんですね」 「おや、そういえば、どうやって解いたのですか?カウンセリングの結果、キイロは3歳児並の知力しか持ち合わせていなかったはず。ネクタイを解かせるのには相当な労力と時間がかかったのでは?」 話を逸らした。そしてやはり確信犯だったんだなこのひと。 僕は目の前の、未だ穏やかな表情を浮かべる男を睨んだ。 「結局自分で解きましたよ。足くぐらせて両手を前に持ってこさせて、包丁で切りました。気に入ってたネクタイだったのに」 「体、柔らかいんですねえ。ネクタイ代はお支払いしますよ、勿論」 「結構です。もう二度と、僕とキイロに関わらないでください」 「いえ、そういう訳には…」 「また変なもの飲まされたら困りますから」 話はそれだけ、という風に僕が腰を浮かせると、青柳氏が両手を広げて僕を制しようとした。 「お待ち下さい。申し訳ございません、先日の無礼は心より謝罪致します。もう二度とあのような真似はしないと誓います」 「そうですか。じゃあ」 僕が出口に向かおうとすると、ぐっと二の腕を掴まれた。痛くはないが、逃がすかという気迫が伝わってきた。それなのに、青柳氏の表情は相変わらず穏やかなので、妙に怖い。 「放してください」 「松浦様、ここはどうぞ、私たちを救う為だと思ってご協力願えませんか?私共はあなたとキイロのデータが欲しいのです」 「実験体になれと仰るんですね?」 「そうでございます。報酬は、お支払い致します」 「嫌です」 はっきり答えると、青柳氏が目を細めた。二の腕を掴む手に力が篭った気がした。 「キイロを停止させてもよろしいのですか」 物騒な言葉に、僕は思い切り眉を寄せた。 「――停止…?」 青柳氏が神妙に頷く。 「うちのペットには誤作動防止のため、予め非常停止ボタンをセットしてあります。何か不手際で、ペットを止むを得ず停止しなければならない場合、うちで遠隔操作できるよう標準装備させているのです」 心臓が軋む。指先が冷たくなっていくのが分かる。 停止?キイロが? 声が、自分の声じゃないみたいだった。震えて、聞き取りにくい。 「……キイロを、無理やり停止させると言うんですか」 「――場合によっては」 頷く青柳氏を睨みつけて笑った。 「最悪。この店」 「協力していただけますね?」 青柳氏の命令に、僕は俯いて低く笑った。 「しますよ。でも、僕は絶対にキイロを抱きません」 「…結構です」 青柳氏も低く笑い返した。
「いい度胸だよなあ」 伊部が椅子に座って、フローリングの床に転がる僕を見下ろす。僕は気持ちの良いビーズクッションを抱えて左右にごろごろしながらぼんやり尋ねる。 「なにが」 「なにがって!お前だよお前!一度襲われかけた男の部屋でごろごろするな!!」 「だってさ」 「だってじゃねえよ!ごろごろするなら飯作れ!」 「だって、家帰りたくない…」 僕がしょんぼり答えると、伊部が頭を掻いて椅子から立ち上がり、ごろごろを止めない僕の脇にしゃがみ込む。にっこりする。 「誘ってる?」 「ううん。全く」 「誘ってるだろ!」 「家帰ったらキイロいるしさ…」 「猫なんかやめとけって」 「すんごい気まずいんだよ。だって、子どもに…」 「俺にしとけよ」 「あ〜、どうしよう、顔合わせにくい……って、なにしてんの?」 気がつけば、伊部が僕の腹の上に跨っていた。ネクタイを外そうとして伸ばした手が、中途半端に彷徨う。 僕は俊敏に起き上がった。伊部が床に転がる。 「帰る」 「飯は?」 「食べにくれば」 「ここで作ればいいだろ」 伊部が口を尖らせる。僕は溜息を吐いて、テーブルの脇に置いてある鞄を掴んだ。 「キイロが家で、ご飯待ってるから」 「…親友よりペットかよ」 「うん。一回ごはんの時間遅らせると、うるさいからさ」 憂鬱だが仕方ない。昨日のことはキイロが悪いんじゃないし、寧ろキイロを使った僕が悪い。どうしようもなかったとはいえ、3時間くらい我慢すれば済んだことなのに、欲求に負けた自分の弱さが情けない。 転がってビーズクッションを殴る伊部を放置して、僕は自分の部屋に戻った。
鍵を開けて入ると、いつものようにキイロが走ってこなかった。 不審に思って、部屋の奥に声を掛ける。 「ただいま。キイロ?」 返事がない。僕は即座に先程の青柳氏の台詞を思い出した。
『キイロを停止させてもよろしいのですか』
ぞくっと、背筋に嫌な汗が伝った。慌てて靴を脱いで、リビングに向かった。 「キイロ!!」 鞄を放って、彼の定位置のソファを覗き込む。 ――いない!? 益々嫌な予感がした。出て行ったのか?いや、まさか。外に出てはいけないと言い含めてある。 慌てて、自分の部屋の扉を開く。すると、ベッドの上でキイロが寝ていた。思わず脱力してしゃがみ込む。 「……ま、紛らわしい…」 僕のベッドの上で、腹を全開にして枕を抱っこしてむにゃむにゃ言っている。 なんか前よりよく寝るなあ…。 溜息を吐いて、布団を掛けてやろうとして、手が止まる。 ――あれ?なんか、でかくなってないか? 昨日は、小学生低学年くらいの大きさだったはず。今は、横になってるからはっきりは分からないけど、僕の肩くらいまで背がありそうな気がする。今朝はまだ寝てたから起こさずに家を出て、はっきりとは見てなかったけど。 一日でこの成長速度は、ちょっとイレギュラーだよな。だ、大丈夫かな?昨日の所為…であってほしくないけど。 とりあえず起こそう。朝から寝てたんじゃないだろうな…。だとしたら寝過ぎだ。 「キイロ、起きろ。メシ食うぞ」 「ん〜、ごはん…?」 転がったまま目を擦る。仕草は変わっていないので、安心する。が、ちょっと待て。 僕は起き上がったキイロを見つめた。 キイロが目を擦って欠伸をする。 「おかえり、千博…」 「ただいま…って、お前、声が」 こ、声変わりしてる…。どういう仕組み!?完全に低くはないが、風邪気味のときのような掠れた声。キイロも喋りにくそうだった。 「分からない。声、変だから、風邪、ひいたと思って寝てた」 「風邪だと思ったら腹出して寝るな」 「お薬、飲んだ方がいい?」 「いや…」 ペット用の薬の類は一切購入していない。僕は頭を振った。 「風邪じゃないよ。しばらくしたら治るから、大丈夫」 「よかった」 にっこり笑うキイロの後ろ頭が寝癖ですごいことになっていた。思わず笑って手櫛で直してやる。すると、キイロが急に黙りこんだ。 「どうした?」 「…なんでもない」 そのまま俯いてベッドから下りる。 「顔、洗ってくる」 たたーっと素早く洗面所に向かう後ろ姿を見届けると、丁度インターホンが鳴った。 ドアを開けると、近くのスーパーの袋を持った伊部が立っていた。 「お前、確認せずにドアを開けるな。和風ハンバーグが食いたい」 「買い物してきたのか。早いな」 「既に買ってたんだよ」 ぶつぶつ言う伊部を招くと、キイロが洗面所から顔を覗かせた。伊部の姿を認めると、あからさまにむっとした表情を浮かべる。 「あれ?キイロ?なんか、でかくなってないか?」 ぷいっとそっぽを向いて、キイロがリビングに駆け込む。 「うわあ、感じ悪〜い」 「反抗期かなあ」 「呑気なこと言ってんなよ。ペットの反抗期なんて聞いたことないぞ」 伊部がスニーカーを脱ぎながら答える。 「でも声変わりしてるんだよ」 「はあ!?ペットが!?」 そんな馬鹿なと伊部が苦笑する。僕は彼をリビングに案内してから、ソファで転がるキイロを呼んだ。 「キイロ、お手伝いして。お皿並べて」 「うん」 素直に頷いて、キッチンへ近づく。 ダイニングテーブル前に着席した伊部が、その声を聞いて目を丸くした。 「ま、マジっすか…」 キイロが不機嫌そうなまま、お皿を一つだけ並べる。それを見た伊部がにっこり言う。 「キイロちゃん、お兄さんの分も用意してくれないかな?」 「自分でやれば」 「……コノヤロウ」 「キイロ」 僕が窘めると、キイロが素直に皿をもう一枚並べる。 伊部が頬杖をついたまま、詰まらなそうに口を開く。 「ご主人の言うことは何でも聞くのか」 「…ご主人じゃないもん。千博だもん」 「千博に恋人できたらどうすんの、こいつ」 伊部が、キイロではなく、台所で野菜を刻む僕の背中に問うてきた。キイロがはっとしたように黙り込む。僕は野菜を刻みながら答えた。 「別に。どうもしないよ」 「部屋に恋人呼べないだろ」 「別に部屋で会わなくてもいいだろ。伊部、暇ならそのボウルの中身混ぜて」 伊部が手を洗って、素直に従う。キイロが僕の隣に立って見上げる。 「千博、恋人、いるの?」 悲しそうな表情に、僕は苦笑した。 「いないよ」 「あの人は絶対、違うよな?」 「おいお前、失礼だぞ。絶対って…」 「うん、絶対、違う」 伊部の台詞を無視してあっさり答えると、キイロがほっとした表情を浮かべた。逆に伊部が悲しげな溜息を吐く。 「でも、前、千博にチュウした、あの人」 「あいつケダモノだから。キイロも近寄ってはいけないよ」 「うん」 「俺帰ろうかな…」 ぼそりと伊部が呟いた。
風呂釜が壊れた。 仕方がないので、東郷に電話してみた。4コール目で出る。 「はーい」 「東郷?お前、今部屋?」 「近所のスーパーです。買い物中。今日鶏肉安いんですよ」 「へー」 「先生、広告チェックしてないんですか?」 「そんな主婦っぽいことはしない」 「収入ないくせに」 「……泣かすぞ」 「なにか御用ですか」 「風呂入らせて。風呂釜壊れた。修理明後日になるらしいから」 「銭湯に行ったらどうですか?」 「俺今収入0だから。少しでも支出を抑えたいんです」 「…根に持ちましたね?」 「んじゃ1時間後に行くから。風呂沸かしてメシ作ってろ」
通話を切って、入浴セットを持って1時間後に、下の階の東郷の部屋に向かうと、ポメラニアンが迎えてくれた。思わず抱き上げて頬ずりする。 「ポメラニアン!元気そうだなあ。メシ食わせてもらってるか?」 にゃああとポメラニアンが嫌がって俺に猫パンチを浴びせる。が、めげない俺。 その様子を見ていた東郷が、溜息を吐く。 「動物虐待反対」 「虐待じゃねえだろ!」 「ポメラニアン、嫌がってるじゃないですか」 「愛情表現の裏返しだろ!飼い主に似たんだよ」 「飼い主って…」 「お前だ、お前。自覚ないのか。未だに俺のこと『先生』って呼ぶくせに。嫌味か、嫌味だろ」 「だって、癖だから仕方ないですよ。今更変えられないし」 東郷が、台所に向かって鍋の火を点ける。良い匂いが部屋中に漂う。俺はポメラニアンを抱いたまま、ダイニングテーブルの定位置に着く。 「何作ったの?」 「筑前煮」 「ほう!腕を上げたな」 「食べてから言ってください。味見してないから」 「しろよ!」 俺が突っ込むと、東郷が渋々鍋の蓋を開けておたまで煮汁を掬い上げて舐める。 「………」 「…どう?」 「………」 無言で東郷が調味料置き場を探り出した。ナイスアドバイス俺、と心の底でガッツポーズを拵える。ポメラニアンが俺の腕の中で、「ドンマイ」と言うように鳴いた。
「お風呂、先に入ったらどうですか。作り直します」 「え、そんなに不味いのか、それ」 東郷が無言で、鍋をそのまま流しに引っくり返そうとするので、慌てて止める。東郷の手から鍋を奪う。 「俺がやる」 「え、作れるんですか?」 「何言ってる。俺は元生物教師だぞ」 「存じ上げてます」 東郷が神妙に頷く。が、すぐに眉を寄せた。 「でも、全く関係ないですよね?」 「いいから、お前はさっさと風呂入ってこい」 うるさい奴を追い出すと、俺は味見を始めた。うちの母親は料理が苦手というか、料理自体は好きらしく、なんでも凝ったものを拵えてくれていたのだが、致命的なことに、見事な味音痴だった。料理ができる度に毒見係りに任命されていた俺は、自然と味を調える能力には長けていた。料理は全くできないけど。 東郷は最近料理に凝り始めたらしく、いろんなものを作っては、余りを俺のところへ届けてくれる。しかし、うちの母親と同様、どうも味音痴の気があるらしく、味付けがかなり微妙で、結局は俺が奴の家に行って味付けをし直している。 「…酒、足りねえんじゃねえの…」 首を傾げて、調味料置き場を探すが見当たらない。冷蔵庫を開けてみる。すると、それらしきパッケージを発見。取り出そうとして、手を止める。冷蔵庫の中に、タッパーがいくつか並んでいる。マメな奴だ。おかずを保存してるのか。取り出して開けてみる。ハンバーグに、かぼちゃの煮付、大根の煮物など、凝ったものが並んでる。弁当に入れるのだろうか?今まで俺が味見していない料理だ。よし、味見しておいてやろう。それぞれ一口ずつ摘まむ。 「………あれ」 普通に美味い。上達したのだろうか。それとも、偶然美味くできたとか? またもや首を捻っていると、早風呂を終えた東郷が、慌てた様子で走り寄ってきた。冷蔵庫を俺の目の前で閉める。ゆっくり振り返って俺を見る。 「…食べたんですか」 「美味いじゃん。上達したな」 素直に褒めると、東郷が俯いた。前髪から滴が垂れる。首にかかったタオルを引き抜いて、がしがしと頭を拭いてやる。 「ちゃんと乾かして来い。風邪ひくぞ」 「…違います」 東郷が呟く。低い声に、俺は手を止めた。 「なにが?」 「…わざと」 「だから、なにが?」 聞きながら、はっと思い当たる。 「もしや、女に作ってもらったとか…?」 「違いますっ」 東郷が怒ったように顔を上げた。少し、顔が赤い。風呂上りの所為じゃないらしい。 「俺、ちゃんと作れるんですっ」 「何を?え、今更言い訳か?」 「ちがーう!わざと味付けおかしくして作ってたんですっ、今までのは!」 東郷が冷蔵庫前にしゃがみ込んだまま怒鳴った。俺の方が、目を瞬かせた。 「はあ?」 なんで、そんな意味のないことを?? 眉を寄せていると、東郷が俺から目を逸らしたままぼそりと言った。 「……そしたら先生、うち、来るでしょう。味付けし直しに」 思わずきょとんとしてしまう。 なに。今まで不味く作ってたのは、俺を部屋に招くためだった、ってことか? 「…なんでそんなまどろっこしい…」 思わず呟くと、東郷が赤くなって逆ギレした。 「だって!!嫌っていうか、恥かしいじゃないですか!『今日うち来ませんか』って毎回聞くの!」 「……………」 「料理だったら、その、毎日食べるものだし、不自然じゃないというか、いい口実というか、いや、口実って言い方もどうかと思うけど。いや実際口実にしたんですけどっ」 東郷が珍しくどもって答えきる前に、俺は可笑しくて可笑しくて堪らず爆笑した。その俺を見て、東郷が涙目になる。 「…なんで笑うんですか」 「やっぱそっくりじゃん、お前ら」 「なにがですか」 「愛情表現の裏返し?」 東郷が黙り込んで頬を膨らませた。 俺はにやにやして囁く。 「素直に言えばいいのに。『一緒に暮らしましょう』って」 東郷が真っ赤になった。その顔を両手で挟みこんで軽くキスする。 「いい加減、部屋引き払え」 「……お風呂壊れてるくせに」 「銭湯行きゃいいよ」 「…料理できないくせに」 「お前がしてくれるんだろ。俺のために」 にやりと笑うと、東郷が真っ赤な顔で睨みつけて言った。 「…先生」 「ん?」 「…鍋、噴き出してます」 「早く言え!!」 慌てて立ち上がると、ポメラニアンが机の下で呆れたような声で鳴いた。
<END>
気がついたらもう昼近くになっていて、慌てて飛び起きる。が、携帯を見て休日だったことを思い出して安心する。溜息を吐いて隣を見下ろすと、僕の真横で眠っているキイロの規則正しい寝息が聞こえてきた。 …やっぱ前より更にでかくなってる。もう慣れたけど。というか、もう一緒に眠るのも限界のあるサイズだ。僕はキイロの肩を揺すって起こしてやった。 「キイロ、起きろ。メシは?」 「ん〜…」 ごろんと寝返りを打つと、体半分がベッドからはみ出る。そのまま、ごとっと床に落ちた。 「あだっ!」 「目、覚めたか」 キイロが上半身を起こして、額を押さえて呻く。 「いたい…」 「なあ、やっぱりベッド交代で使おう。二人で寝るのはもう無理だって」 ベッドの上で胡坐をかいて提案すると、キイロが恨めしそうな表情で床にしゃがんだまま口を尖らせる。 「やだ」 「毎回、落ちてるだろキイロ」 「平気だもん」 「無理だって。このベッドサイズ、知ってる?」 「知らない」 「幅97センチだ。男二人が安眠できるサイズじゃない」 「じゃあ、おれこうやって寝る」 キイロが、慌てたようにベッドに上がって実演してみせる。右腕を下に、シーツに対して背中を垂直に向けた横向けの姿勢でベッドに体を伸ばす。 「…寝返り打てないだろ」 「打たないで寝る」 「無茶言うな」 「だって〜」 「だってじゃない。はい、決定!今日から交代制で寝ること。今夜はキイロが使っていいから」 僕が手を打ってベッドから立ち上がると、キイロが頬を膨らませた。 考え方も言葉遣いもまだ完全に子どもだが、キイロは確実に成長していた。声はすっかり低くなったし、体つきも少年から青年へと移行しつつある。というか、結構背が高いことに、僕はショックを受けた。一応173センチある僕より、恐らく5センチ、いやそれ以上あるような…。これじゃあ、ペットというより、大きな弟を飼ってる気分だ。 成長を止めるため、クッキーの量を減らそうかとも考えたが、僕がもりもり食べている横でキイロにお預け食らわせるのは、なんだかとても良心が痛むので、結局はいつもどおりの量をやってしまっている。お陰で順調に成長しているのだが。…ていうか、どこまで伸びるんだろう?2メートル越したらどうしよう…。 密かに悩みながら、パジャマ代わりのTシャツを脱ぐと、背後に視線を感じて振り返る。服を脱ぐ途中のポーズで固まったまま、問う。 「どうした?」 僕の背中になにかついてるのだろうか。キイロが、僕の声に、はっとしたように俯く。 「ううん、なんでもない」 最近のキイロはおかしい。以前の彼なら、なんでもかんでも僕に質問してきたものだが、最近ではあまり質問をしなくなった。ふと物思いに耽るような仕草を見せたり、なにか考え事をしているようでぼんやりしていることが多かった。思春期…とか、ペットにあるのだろうか…?
「よし、お昼買いに行ってくる」 「おれも!おれも行くっ」 はいはいはいっと、キイロが椅子から腰を浮かせて挙手するが、僕はあっさり切り捨てた。 「駄目。お留守番」 「なんでっ!おれも外行きたい」 「駄目だっつの。近所の人に見られたらややこしいし」 「ペットですって言ったらいいよ!」 「言えるか!」 思わず突っ込むと、キイロが悲しげな表情を見せる。 「おれだって、千博の役に立ちたい!伊部ばっかり買い物してきてずるい」 キイロがでかい図体で喚く。 どうやら彼の中で、『買い物してくる』=『僕の役に立つ』となっているらしい。よって、毎度食材を用意してくる伊部が羨ましいらしい。僕は苦笑した。 「ヤキモチ妬いてるのか」 「やきもちって、なに?」 キイロが首を傾げる。 「僕がキイロじゃなくて、伊部の方を頼りにしてると思って腹が立ったんだろう」 「そう、それ!」 「それを焼きもちと言います」 「へー」 キイロが感心したように頷く。が、すぐに問いかけてくる。 「千博は伊部を頼りにしてるのか」 「まあ、場合によりけり」 「ヨリケリ?」 「時々、助かるなあって思うことはある」 僕の答えに、キイロが目に見えて沈んだ。 「おれより、伊部の方がいい?」 「そんなことないよ、キイロはキイロで良いところがあるよ」 そう答えると、キイロが今度は目に見えて喜んだ。尻尾があれば、ぱたぱたと振っているのがわかるくらいに。 「伊部より、おれがいい?」 「比べるもんじゃないだろ。伊部は伊部、キイロはキイロ」 答えながら、僕はジャケットを羽織って玄関へ向かう。キイロが後ろをついてくる。 「じゃあ、千博はおれのこと好き?」 うきうきした様子でキイロが無邪気に尋ねる。 きっと、深い意味はないのだろう。ペットの愛情確認。僕はそう思って、苦笑して斜め上のキイロの頭を撫でた。 「好きだよ、だからいい子で待ってなさい」 そう言うと、キイロが本当に嬉しそうに頷いた。
その夜、伊部がまたもや食材を抱えてやってきた。僕にそれを手渡しながら言う。 「焼きそば」 「なあ、最近毎日来てるけど、大丈夫なのか?」 以前は、多くても週に3日くらいの頻度だった。映画の方は順調じゃないのかと、心配になってくる。しかし伊部が笑って靴を脱ぎながら答える。 「順調だよ。超順調。調子良すぎて明日休みだし」 「超っていうな」 「だから今日泊まってもいい?」 「寝る場所がない。てか家隣じゃん、帰りなよ」 「…日に日に冷たくなっていくな、お前は」 しかしそこが良いと、訳の分からないことを呟いて、伊部がリビングに入る。すると、突然叫び声を上げた。 「うわあ!?」 「な、なに?」 伊部の声に驚いて、彼の後ろからリビングを覗き込むと、すぐ目の前に包丁を持ったキイロが立っていた。伊部とそんなに身長が変わらない。正面で対峙し合う格好となる。伊部が僕を背中に庇うようにして、喚く。 「な、なにやってんだキイロ?ていうか、でかい!?」 「また伸びたんだよ」 僕が冷静に答えると、伊部がキイロを見据えたまま怒鳴った。 「限度あるだろ!ここまで来るとペットじゃねえよ」 「キイロ、危ないから包丁はしまえ。な?」 「おれ、料理したい」 「わかった!教えてやるから!包丁は置け!持ってうろつくのは絶対に駄目!!」 僕が叱ると、キイロは素直に頷いて台所へと戻る。 「じゃあまず手を洗って。この袋の中身冷蔵庫に入れて」 「わかった」 素直に頷くその姿を見て、伊部と二人、脱力する。 「…どうすんだよ、千博」 「え?」 「あんなでかいとさ、いい加減無理だろ。一緒に暮らすのは。近所に見つかったらどうすんの」 僕は自分の部屋に戻って、キイロが使えそうなエプロンを箪笥から探す。伊部が、ベッドの端に座って胡坐をかく。 「親戚の子って言う」 「日中うろうろしてたら怪しまれるぞ。明らかに見た目学生なのに」 僕が口を閉ざすと、伊部が溜息を吐いた。 「オプション品で、ペットの体を小さくできる薬あっただろ。最初にもらってた錠剤の。あれ、使えよ」 初めにキイロが送られてきた時に、箱の中に入っていた瓶に詰められた錠剤、あれは遠出したときなどにペットを持ち運ぶために体を小さくすることのできる薬だった。いちばん初めの手の平サイズまで縮めることができるらしい。勿論、サイズを元に戻す薬もある。 僕は首を横に振った。 「…薬は使わない」 「…なんで?いいじゃん。小さくなっても、キイロはキイロだろ?前はあのサイズだったんだから、問題ないだろ。寧ろ小さいほうがペットらしくて可愛いじゃん」 僕が更に首を振ると、伊部が身を乗り出す。 「なんで。困るのお前だろ」 「嫌なんだよ。薬とか、使うの。これ以上、自分の都合で、好き勝手にするのは嫌だ。ただでさえ、ペットなんて人間の都合で飼われたり捨てられたりするのに、一緒に暮らすのに都合が悪いからって、薬使ってサイズ変えたりまでしたくない。飼ってるってだけで自己満足なのに、それ以上振り回すのは可哀相だよ。本当言うと、キイロだって僕に飼われてるままでいいのかなって思うときあるし…」 「え、それって?」 「なんか、成長するにつれて段々ペットって感覚なくなってきたというか、なんていうか…」 「………千博」 「僕より大きくなってきたわけだし、まさかここまで大きくなるとも思ってなかったし」 「千博」 「飼いにくくなったっていうのは正直なとこだけど、でも……あ」 伊部の困ったような声にようやく気づいた僕は、口を閉ざして、部屋の入り口を見て固まった。 キイロがやきそばの袋を片手に、じっとこちらを見つめていた。顔が青い。その表情を見て、僕はコトの重大さに遅ればせながら気づいた。 「キイロ」 僕が声を掛けると、キイロがはじかれたように走り出した。玄関へ向かう。 ――まずい、外に出る気だ。 「キイロ!!」 キイロは外に出たことがない。一人で出すのは危険だ。僕は慌てて後を追おうとした。が、突然ぐっと腕を掴まれる。ぎょっとして振り返る。 「伊部!?」 「追いかけんの?」 「当たり前だろっ!放せ」 慌てて振りほどこうとするも、奴の力は強固だった。益々焦る。 「伊部!!」 「拗ねてるだけだって。すぐ戻ってくるよ。どうせここしか帰ってくるところないんだし」 「駄目だ!だって、キイロ外に出たことないんだぞ!?」 「大丈夫だって。見た目学生だし。道分からなけりゃ、人に聞くだろ」 「見かけ倒しなんだってば!」 キイロは見かけはああでも、知力は低い。僕が物をあまり教えなかった所為でもあるけど。 「ちょっと、マジで放…」 ぐいっとすごい力で腕を引かれた。ベッドに押し倒される。伊部がまた腹の上に跨る。 「退けってば!遊んでる場合じゃ」 「飼いにくいんなら、捨てればいいだろ」 伊部が、冷たく見下ろしてくる。こんな表情、初めて見た。こんな顔する奴だったんだ。13年も一緒に居て、全く分からなかった。僕は伊部の胸を静かに押し返した。 「ごめん、本当に退いてくれ。探しに行かないと」 「ただの気紛れで飼ったペットだろ。放っといても平気だろ」 「駄目だ。捨てないって、約束したから」 「俺を見ろよ」 低い声に、目を瞠る。伊部が静かに僕を見下ろしていた。切羽詰ったような表情、一瞬泣いてるのかと思った。 「…伊部?」 「なんで、気づかないんだよ。ほんとに鈍すぎだろ。ずっと一緒にいたろ。好きなんだよ。傍にいたいんだよ。ペットにも、取られたくねえんだよ」 真剣でまともな告白に、僕は一瞬固まった。その隙をついて、伊部が唇を寄せてきた。無理やり口を開かされる。熱い舌が入り込んでくる。 「―――っ!」 キスされたまま、シャツを捲り上げられる。素肌を撫でられて、ベルトに手が掛かる。 「ちょ…っ!」 やめろという前に、下着ごとジーンズが下ろされて青くなった。 「待て!伊部っ!!」 「好きだ」 耳元で囁かれる。肌を撫でられる。
―――まずいと思ったのと同時に、例えようのない熱と痛みが全身を襲った。
ぼんやりした頭で覚醒した。全身が熱くてだるい。重い。腕を伸ばすのもやっとで、机に置きっぱなしだった携帯を手に取る。時刻を確認する。四時。キイロが出て行って十時間経ったことになる。 キイロ。 はっとして、僕は体を起こした。 「あ、いってえ…!」 上半身を起こすと、腰に激痛が走った。思わず背中を反らせて腰を擦る。狭いベッドでは、隣で裸の伊部が寝息を立てていた。その姿を見て大きく溜息を吐く。同時に何ともいえない、情けないような腹が立って仕方がないような自業自得のような複雑な思いが絡まる。 僕を抱いている間、伊部は一度も幸せそうな表情は見せなかった。ただただ、辛そうな表情で、時折泣いてるように見えたから、非常に腹が立ったけども、怒鳴り散らす気にはなれなかった。仕方がないという、諦めの思いがいちばん大きかったように思う。伊部をここまで追い込んだのは、自分の所為じゃないかという思いが、ちらっと掠めたからだ。 「…ごめん」 ぽそっと声が聞こえた。驚いて見下ろすと、横になったまま伊部がこちらを見上げていた。僕が黙っていると、もう一度伊部が呟いた。 「ごめん…」 「…なんで、謝るんだよ」 伊部が僕の台詞に目を見開く。 「だって、無理やり、したから」 「合意じゃ、できないと思ったからだろ」 僕の言葉に、伊部が上半身を起こした。壁に背を預けて溜息を長く吐く。 「…うん」 「確かに。合意じゃ、絶対にやらせない」 伊部が項垂れた。 「だからって、無理やりやるなんて最低最悪だ」 「……ごめんなさい」 伊部がベッドから下りて土下座した。全裸だから格好悪いったらない。 「つーか、犯罪だろう」 「すみません、二度としません」 「当たり前です」 僕が大きく頷くと、伊部が土下座姿勢の、額を床にくっつけた状態で小さい声で言った。 「……マジで、ごめん…」 僕は溜息を吐いて、傍にあった伊部の服を投げてやった。 「着ろ。風邪ひくから」 「千博」 伊部が顔を上げた。その情けない表情を見て、昨夜の冷たい目は幻覚だったのかと思えてくる。けど、あの伊部もちゃんと伊部なんだ。僕が気づかなかっただけ。 「伊部の気持ちは嬉しいけど、応えることはできない。僕は伊部のこと、そういう風には見れない。今回のこともムカつくけど…。そこまで追い込んで、油断した僕にも責任あるんだし、別にやられたからって妊娠するわけでも何が減るってわけでもないし…」 一度、言葉を切る。 「今まで伊部は色々助けてくれたから、感謝してる。だから、今回のは、無理かもしんないけど、なかったことにする。僕はそうすることにする」 伊部が黙り込んだ。俯いて拳を握り締めるのが分かった。 「…伊部?」 「…俺、お前より良い奴、見つけられるのかな…」 「探せよ」 僕がそう言うと、伊部がのろのろと顔を上げた。泣き笑いの、格好悪い表情を浮かべる。僕の知っているいつもの表情だ。 「…努力する」
伊部に止められたが、痛くて重い体を引き摺って家を出た。 キイロを探さないといけない。 家に戻って来なかった。一体どこへ行ったんだろう。初めて出た外の世界だから、電車にも乗れないだろうし、そう遠くには行けないはずだ。 近所の小学校や、公園を探すも、見当たらない。見つからないと、段々不安になってくる。もしかして、車に撥ねられたりとか…。 嫌な予感ばかりが脳裏を掠める。 「キイロ」 無事でいてくれと、心から願う。
一時間程、探し回ったが、どこにも見当たらなかった。というか、やっぱり体がきつい。しんどくて、思うように動かない。くそ、やっぱり許すんじゃなかった。伊部の馬鹿野朗。調子に乗って二回も三回もするからだ。いや、今はそんなこと考えてもしょうがない。近所のコンビニに辿りつくと、そこの駐車場に座り込んで、携帯を取り出した。 非常に、嫌だが仕方ない。 僕は携帯アドレスのいちばん上に登録されているメモリーを呼び出した。
「はい、こちらペットショップオアシス、メンテナンス担当青柳でございます」 「あ、青柳さん?」 「御用の方はこちらの―」 …やっぱり、留守電か。朝四時だもんな。がっかりして切ろうとしたら、携帯の奥で声がした。 「はい、青柳でございます。松浦様?どうなさいましたか、こんな夜更けに」 聞き覚えのある穏やかな声に、ほっとする。 「青柳さん!すみません、こんな時間に。キイロが行方不明なんです。そちらに、伺ってませんか?」 「いえ、こちらには…。どうかなさったんですか」 「ちょっと、喧嘩して…」 「松浦様、非常に申し上げ難いのですが、ペットを一人で外へ出すのは危険です。特にキイロの知力は、低く設定されております。外出される際には、飼い主と同伴でなければ、道路に飛び出す、踏み切りを超える、信号を無視する等の危険が」 「分かってます!だから、探してるんですけど、見つからないんですよ!!」 思わず怒鳴り返してしまった。携帯の向こうが、沈黙する。僕は気まずくなった。 「…すみません、こんな時間にかけておいて…。失礼します」 「少々、お待ち下さい」 青柳氏の声が低くなった。少しの間の後、青柳氏が静かな声で続ける。 「ペットには万が一の為、GPSも組み込んであります。そちらで探索してみましょう」 「あ、ありがとうございます!」 思わず立ち上がって声を上げる。その時だった。僕が立ち上がったと同時に、後ろのコンビニの自動ドアが開いて、男が二人、揉み合うように出てきた。 「ちゃんと、金払えっつーの」 「放せ〜っ」 店員と、客。万引きの現場らしい。それを見た途端、僕はすぐにその二人に走り寄った。 「キイロ!!」 はっとしたように、万引き犯が顔を上げる。店員がきょとんとしたように、僕を見つめる。 「あ、あんたの知り合い?この人、お金払わずに店出ようとしたんだよ」 「すいません、払います。いくらですか」 商品は、お弁当一つだった。店員が、ちょっと待ってと店内に戻ろうとした瞬間、キイロが走り出した。慌てて、弁当を店員に押し付けて後を追う。 「キイロ!待て、どこ行くんだよ!」 「ちょっと!!買わないのかよっ」 店員が喚くのを無視して、僕はキイロを追いかけた。
足、速い。足の長さもあるかもしれないけど、なんか体が軽そうだし、そうだ向こうのが若いし…。 数百メートル追ったところで、もう限界だった。距離がどんどん開いていく。肩で息をしながら、それでも追いかける。すると、丁度大通りに出た。キイロの前の信号が赤に変わる。 ラッキー。追いつくチャンスだ。僕は最後の力を振り絞って、加速した。 のだが。 「…え?」 キイロの背中がどんどん遠ざかる。 しまった。 赤信号は、止まるものだって知らないんだ!! 「き、キイロ!!ストップ!!止まれっ」 慌てて怒鳴ると、キイロがちらっとこちらを振り向いた。僕は両手を広げて声を張る。まだ百メートル以上、キイロとは距離がある。 「駄目だってば!!轢かれるから、止まらないと!」 しかし、構わずキイロは走り出す。赤信号を、無視して渡る。朝方だったのが幸いしたのか、横断する車はなかった。ほっとしたのも束の間、信号を超えると、またキイロが加速する。 「くそっ、速すぎだってば!!」 その背中を、見失うまいと目を凝らした僕だったが、キイロのことにばかり夢中で、自分の横断する信号のことを、すっかり失念していたのだった。 すぐ近くで、大音量のクラクションが鳴る。はっと気づいた時には、目の前の信号が赤で、朝方だから減速しないトラックが突っ込んできたところだった。
目を開けると、暗闇だった。 思わず、何度も瞬きを繰り返す。視力が回復しない。ぞっとして、手を伸ばすと、何かに当たった。いや、というか、何かが覆いかぶさってるのか。全身が重い。ゆっくり、体を起こす。視界が開ける。まだ明けない空が映った。それと、 「――キイロ」 キイロが僕の上に重なるように目を閉じていた。 あれ。戻ってきたのか?僕が追いかけてたはずなのに。 「だ、大丈夫か兄ちゃん!?」 慌てたような、中年の男性の声が降ってきた。トラックの運転手らしい。小太りで、よたよたとトラックの運転席から降りてきた。 「駄目だよ、信号赤だったろ!?あっぶねえなあ」 「す、すみません…」 謝ると、その運転手が僕たちの方を見て声を失った。その顔色の変化に、僕は眉を寄せた。 「?あの…」 運転手が、へたりとその場に座り込んだ。口をぱくぱくさせて、こちらを指さす。 「そ、そいつ…」 「え」 運転手が示したのは、僕に覆いかぶさっているキイロだった。その指の先を追う。 僕も声を失った。
キイロの、膝から下が見当たらなかった。
「松浦さん」
肩を揺すられて、ようやく我に返った。ゆっくり顔を上げると、髪を乱して、いつものスーツじゃなくカジュアルな格好の青柳氏が息を乱して立っていた。一瞬誰だか分からなくて混乱した。 「通話が途中でしたので、気になって来てみたのです。大丈夫ですか?」 「キイロが…」 「はい。一度店に連れて帰りましょう。車に乗せてください」 青柳氏が、僕の二の腕を掴んで立たせる。僕はキイロの上半身を支えて立ち上がった。が、がくんと力が抜けたように、膝をついてしまう。 「私が運びますから」 青柳氏が、僕からキイロを抱きかかえようとするのを見て、僕はキイロを取られると思い、ぞくっとした。 「い、いいですっ!僕が運びますから!」 慌てて奪い返す。力を込めて、立ち上がる。その僕の様子を見て、青柳氏が大きく息を吐いた。そして、呆然と道路にしゃがみこんでいる運転手に指示する。 「すみません、トラックの下に、捲き込まれた足が挟まってないか、見て頂けますか?」 「あ、…足!?そ、その兄ちゃん、なんなんだよっ。足、ちぎれて…」 「ペットですから。大丈夫ですよ」 「ペット!?」 青柳氏の言葉に、運転手が声を裏返す。 僕は、顔色を失って目を瞑ったままのキイロを見つめた。 さっきまで、あんなに素早く走ってたのに。今は、ぴくりとも動かない。 「……じゃない」 僕の低い声に、青柳氏が運転手からキイロの足を預かって、自ら運転席に乗ってから眉を顰める。 「大丈夫じゃ、ない」 「……大丈夫ですよ。思いの外、キレイに取れてるので、くっつけるのに時間はかかりません」 「大丈夫じゃないです…、ペットじゃ、ないです」 青柳氏がシートベルトを締める。助手席に、キイロの膝から下が無造作に置かれている。後部座席で僕の膝に頭を乗せて眠るキイロは、いつもみたいにむにゃむにゃ言っていなかった。とても、恐ろしいほど、静かだった。 「…ペットじゃない。キイロはキイロです」 青柳氏が体ごと振り返った。僕を見つめる。 「松浦様」 ゆっくり顔を上げると、青柳氏が無表情で告げた。 「キイロは元に戻ります。我々を信じてください」
僕の所為だ。 僕を庇って、キイロは膝から下を無くした。いくらペットと言っても機械仕掛けだって分かってても、痛いに決まってる。キイロはちゃんと笑うし怒るし泣くし、嫉妬もするのだ。感覚が、感情があるのだ。痛覚だけがない訳ない。僕を庇って痛い思いをしたに違いない。それは僕の所為なのだ。キイロが誤解するような発言をして、飛び出してったのに、すぐに探しに行かなかった僕の責任だ。信号を無視して轢かれそうになった僕の所為だ。僕がいなければ、キイロは僕の代わりに轢かれることも、痛い思いをすることもなかったのに。
ペットショップオアシスに着くと、すぐに青柳氏はキイロをソファに寝かせて、どこかに電話をした。 「ここは設備が不十分ですので、一度工場の方でキイロを見てもらうことになるのですが…」 携帯の通話口を右手で押さえて、青柳氏がこちらを見た。僕は、のろのろと顔を上げた。 「工場って…」 「福岡の方です」 「……どれくらい、かかるんですか」 「……一ヶ月くらいだそうですが」 一ヶ月。会社を休むには少しきつい。でも。 「僕も行きます」 「しかし」 「行きます」 二度言うと、青柳氏は一度通話を切って、僕に向き直った。 「非常に申し上げ難いのですが、工場内は関係者以外は入れません。松浦様が工場に向かったところで、何もできることはないと思われます」 「でも…」 「キイロの為を思うのであれば、難しいかもしれませんが、いつもどおりの生活をなさってください。そのいつもどおりの環境でキイロを迎えてあげる方が、彼にとってもいいはずです」 「いつもどおり…」 結局、僕は福岡に行くことはできなかった。
いつもどおりって、どうやるんだっけ。
朝起きてキイロ起こして、会社行って、帰ったら伊部の買って来た食材でご飯作って、キイロと三人でテーブル囲って―――。
はっきり言って、キイロは寝相が悪い。ベッドが狭いと文句を言った僕だが、実はキイロの寝相の悪さも原因の一つだった。何度ベッドから蹴落とされたかしれない。寝言もむにゃむにゃうるさいし、キイロと暮らすようになってから、安眠とは程遠くなった。でも、子どもみたいにぴったりくっついて眠るキイロは、親に甘えているようで可愛かった。シャンプーをした後の髪は柔らかくて甘い匂いがして、その髪を撫でてやるのが好きだった。 キイロは食事も上手ではない。クッキーとミルクだけのはずなのに、キイロの食事の後のテーブルの上は、クッキーの欠片やらミルクの零れた跡があちこちにあったり、包み紙が散らかってたり、散々だった。何度怒ったかしれない。 青柳氏の陰謀で、妙な服を着せられたり、変な香水つけてたり、化粧してたり、家に戻る度にひやひやした。その度にキイロがタックルしてきた。「遊ぼう」「ごはん」とねだる。キイロが笑顔で迎えてくれるので、家に戻るのが、徐々に楽しみになった。
僕はキイロが来る前の生活を、思い出せなくなっていた。 僕は、キイロが来るまで、一体どうやって眠ってたんだろう。どうやって食事していたんだろう。どうやって家に帰ってきてたんだろう。
一ヶ月は永遠に終わらないかと思った。
しかし、丁度一ヶ月経った昼休みに、青柳氏から連絡があった。 「松浦様、キイロの治療が完了致しました。本日にでもお届けできます。いかが致しますか」 僕は定時と共に仕事場を飛び出して、オアシスへと急いだ。
雑居ビルの5階を目指すと、青柳氏が入り口に立っていた。穏やかな笑顔である。僕を見ると、にっこり言う。 「大変お待たせ致しました」 「キイロは?」 青柳氏が体を一歩横にずらすと、後ろにキイロが立っていた。 あの時と同じ服装だった。ちゃんと、足もついている。 …良かった。本当に良かった。ちゃんと、無事に帰ってきたんだ。僕は、一歩踏み出してキイロに近づいた。 「キイロ…」 胸がいっぱいになって、泣きそうになるのを堪えて、キイロに抱きつく。すると、ぽんぽんと頭を撫でられて、その仕草だけでもう涙が止まらなくなった。 「よかった…。ごめんな、ごめんキイロ」 僕の所為で、痛い目に遭わせてしまった。何度謝っても足りない。二度と、こんな目に遭わせたくない。 僕は、しっかりとキイロの体を抱きしめた。 そのとき―――
「大丈夫。ご主人様」 低い声に、耳を疑った。思わず、涙に濡れた顔を上げる。キイロを凝視する。 「…今、なんて」 キイロが首を傾げる。 「ご主人様」 「――は?」 僕は、青柳氏を見つめた。 「なんで…」 僕の疑問に、青柳氏が複雑な表情を見せた。何時になく、弱気な発言をした。 「…申し上げ難いのですが、その、私どもと工場の方の伝達ミスと申しますか…。元々欠陥品であるキイロは、足の修理と欠陥部分の修復という理由で送られてきたものと、工場の方が判断したようでして…。その、ちぎれた足だけでなく、プログラムの改善も行ったようなのです…」 「それって…」 「欠陥品ではなくなったということです」 青柳氏がきっぱり言い切った。 「主人に対して反抗することも一切ありません。無償の愛情を注ぐよう、主人を守るよう設定されています」 頭が真っ白になる。青柳氏の言っていることがよく分からなかった。 「…記憶は?キイロは、僕のこと『千博』って呼んでたんです」 青柳氏が、首を横に振った。 「プログラムを再構築しています。今のキイロは、器は以前のままでも、中身は全くの別人であると捉えた方が…」 「……嘘」 信じられない。前の、キイロとは、別人だって? だって、同じじゃん。髪も顔も、笑い方も、感触も全部。 どこが、別なんだよ。
キイロが、僕を見下ろしてにっこり笑った。腕を、僕の背中に回す。
「ご主人様、愛してます」
思わず、キイロの胸を押し返した。 キイロが、驚いたように僕を見下ろす。 「ご主人様?」 「…違う」 キイロが首を傾げる。僕は、一言一言、区切るように言った。 「ち、ひ、ろ。いつもそう呼んでただろ」 「ち…」 「ちひろ」 「ちひろ…ご主人様」 「違うってば!千博!」 声を張ると、キイロが悲しそうに目を伏せた。その様子を見ていた青柳氏が声を掛けてきた。 「松浦様。残念ですが、以前と同じキイロを求めるのは無理があります。今のキイロは、あなたを愛することしか頭にありません。あなたを怒らせたり困らせるような行動は、一切取りません」 「…返してください」 静かに言い返すと、青柳氏が口を閉ざした。僕は、キイロを放って、青柳氏に詰め寄った。 「前のキイロを返してください!元に戻してください!戻せ!」 「…無理です。以前のプログラムは二度と回復できません」
―――なんでだ。こんなのってない。
捨てないって、約束したのに。
床に座り込むと、キイロが僕の横にしゃがみ込んだ。顔を覗き込んでくる。 「ご主人様、大丈夫ですか?どこか、痛いですか?」 背中を撫でる温かい大きい手。
小さい頃のキイロがフラッシュバックする。数ヶ月前のことなのに、もう随分昔の記憶に感じる。 『だいじょうぶか、どこかいたい?』 小さい手で一生懸命、よしよしと背中や頭を撫でてくれる。 僕に「いい子」だと言われてぼろぼろ泣き出したキイロ。
…そのキイロは、もういないんだ…。
僕がゆっくり立ち上がると、キイロも倣って立ち上がった。 「ご主人様?」
――僕は決めた。
キイロに向かって手を伸ばす。 「…帰ろう」 「はい」 キイロが僕の手を握る。僕はその手を握り返した。 温かい手。 小さかったキイロと、同じ手。もう二度と、この手を振り払っちゃ駄目なんだ。同じ思いを味わわせてはいけないんだ。
この手こそ、今度こそ絶対離さない。
家に帰ると、キイロが可愛いエプロン姿で出迎えてくれた。 「お帰りなさい、ご主人様」 「……そのエプロン、どうしたんだ?」 僕が眉を寄せると、キイロが僕の表情を読み取って、しょぼんとした。 「このエプロンを、使ってはいけませんでしたか?」 「…いや…」 |