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 河原塚くんを撥ねた犯人二人組みは、光や河原塚くんと幾つも違わなかった。格好や話し方からして、まだ若い。
 二人はおれの答えを聞くと、おれの肩を掴んでいた眼鏡の方が先に口を開いた。
「とりあえず、あの高校生病院連れてくから、君も来て」
 ぐっと腕を引っ張られ、おれは慌てて大声を出そうとした。

 だって、晴大せんせに、知らない人についていってはいけませんって言われたし。

 でも、おれが大きく口を開く前に、眼鏡が察知したのか、おれの口を大きな手で覆った。
 その時視界の端に、公園の入り口で遊んでいる同じ組の翔くんの姿が見えた。妹たちとボールで遊んでいる。
 こら!何平和に遊んでるんだ!非常事態のこっちに気づけっ!!
 おれの願いも虚しく、ひょいと簡単におれは眼鏡に担がれた。もう一人の、グレーのニット帽の男は、道路に倒れた河原塚くんを車に運んでいた。
 まずい。この状況はまずい。テレビで見たことある。
 目撃者は消される運命だって、二時間ドラマ見ながら母ちゃん呟いてたし!!
 ていうか光は!?可愛い弟の大ピンチに、何のほほんとしてるんだろう!光が早く迎えに来ないからこんな目に遭っているというのに!!くそ、帰ったら必殺ハイキック5発程かましてやる!!
 河原塚くんは、後部座席に足を座席の下に下ろして上半身だけ横たわっている状態で寝かされていた。気を失っているのか、ぴくりともしない。おれは首根っこを掴まれて、その隣に押し込められた。河原塚くんが後部座席をほとんど一人で占めているため、仕方なく膝枕する形で座った。するとすぐに、二人組みが運転席と助手席に乗り込む。眼鏡が助手席、ニット帽が運転席だった。
 ニット帽が眼鏡に尋ねる。
「ど、どうすんの」
「…とりあえず出せ。つか早く迎えに行かねえとやべえだろ」
「後ろのは…」
「いいから早く出せって!」
 眼鏡が、がんっとダッシュボードを蹴った。それを見て、ニット帽が慌ててシートベルトを締めてサイドブレーキを解除した。


 車が動き出した途端、おれは今まで味わったことのないような不安に駆られた。
 どうしよう。どうなるんだろう、おれ。殺されるのかな。まだ、5年しか生きてないのに…。
 大体この人たちはどこに行く気だろう。明らかに病院じゃないことは確かだ。迎えに行くって言ってるけど、一体誰を…。
 後部座席で小さくなっていたおれの手に、突然なにか硬いものが触れた。ぎくっとしてそちらを見ると、おれの膝で眠っていた河原塚くんが薄目を開いて、口に人差し指を当てた。
 良かった!河原塚くん、生きてるよ!!なんだよ、びっくりしたよもう!起きてるなら起きてるって言ってくれりゃあ良かったのに!
 が、彼はおれの心配を他所に、おれの手に何か握らせた。
「……?」
 携帯電話だ。光がよく家で弄ってるのを見たことがある。一度黙って拝借して適当にボタンを押して放置しておいたら、後でめちゃくちゃ怒られた。その月のパケット代がハンパないと光が泣いていた。それ以来、おれは触らないようにしている魔の器具だ。
 それを、おれに使いこなせというのか?無理を仰る。
 ちらりと画面を見ると、真っ暗だった。どうやら電源が入っていないらしい。
 壊れたの?と口パクで尋ねると、彼が頷いた。
 くそう。こんな時に!役に立たない機械だ!
 思わず前に座る犯人に投げつけようとして、おれは思い留まった。
 河原塚くんが起きたのなら、もう病院に行く必要もないし、この車に乗り続ける理由もないはず。
 おれのついさっきの恐怖は、河原塚くんが目覚めたと同時に吹き飛んだらしく、強気に出てみることにした。だってこれが本来のおれの持ち味ですから。


「ねえ、どこ行くの?」


 おれの唐突な質問に、犯人二人プラス河原塚くんもぎょっとしたようにおれを見つめた。


 一番冷静だったのは、眼鏡だった。助手席から、真後ろに座るおれを振り返る。半笑いの表情を浮かべて言う。
「病院だよ」
「びょういん、こっちじゃないよ。おれの母ちゃんかんごしだもん。びょういんのばしょ、おれしってるもん」
「お兄さんたちの知り合いの病院だよ」
「でも、もうびょういんいいです。お兄ちゃん、おきたし」
 おれの発言に、眼鏡のみならず運転中のニット帽も、ざっと突然後部座席に顔を向ける。
 河原塚くんが冷静に正面を指差す。
「前、前見てください。赤です。危ないですよ」
「うおおおお!!」
「何やってんだ、お前はーーー!!」
 ものすごいブレーキ音がして、前を走っていたトラックのお尻わずか10センチ手前で停車した。お陰でおれは座席の間にはまって頭を前の座席で打ってしまった。
「いたい」
「大丈夫か」
 河原塚くんがおれを助け出してくれた。そしてすぐに前に座る二人に向かって凄む。
「あなたたち、僕らをどれだけ怪我させたら気が済むんですか」
「うるせえ!つかお前元気じゃん!生きてるじゃん!!」
 ニット帽がハンドルをがんがん叩きながら喚く。河原塚くんが、もうおれが座席にはまることのないよう、背後からぎゅっと抱きしめてくれながら言う。
「死んでねーよ」
「え、なに!?死んだ振り!?」
「あんたらが熊ならまだしも、何のメリットがあって住宅街の真ん中でそんなことしなきゃならないんですか。今気がついたんです。気絶してただけです。もういいでしょ。僕を撥ねたことは水に流しますんで、そろそろ降ろしてください」
「降ろすかぼけーー!!」
 叫んだのは、今まで黙っていた眼鏡だった。
「紛らわしい真似しやがって!!こっちは死ぬ程急いでるってのに、余計な手間かけさせやがって!!」
「人撥ねておいてよくもそんなことが言えますね」
「うるせえ!!こうなったらお前ら二人道連れだ!!」
 え?逆ギレ!?
 おれと河原塚くんが顔を見合わせると、眼鏡に頭をはたかれたニット帽が、青信号と同時にアクセルを踏み込んだ。


「急げ!!時間がねえ!!」








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 もう一度河原塚氏のケータイに掛けてみたが、やはり繋がらない。オレが何度も何度もケータイを操作するのを、隣で見ていた晴大先生が見兼ねたように口を開いた。
「とりあえず、大通り付近を黒いワンボックスに注意して捜してみましょう。まだ時間も経っていないですし、案外近くにいるかもしれません」
「はい…」
 そうだ。じっとしていても仕方が無い。とりあえず二人を捜さなきゃ。
 オレは持っていたケータイを鞄に仕舞おうと、鞄のファスナーを下げた。その時、丁度鞄の中から黄色い物体が転げ出て地面に落ちた。


「あ…」
 幼稚園で晴大先生に渡された、保が作ったという正体不明の折り紙だった。


『自分たちの好きな人に折ってあげましょうって、今日折り紙の時間に作ったんですよ』


 オレがその折り紙を拾い上げるのを見て、公園を出て大通りへ向かおうとしていた晴大先生が足を止めた。こちらに向き直る。
「これ、保、誰に作ったんでしょう…?」
 保の好きな人。誰だろう?絶対にオレではないことは確かだ。いつも蹴られるしね。
 母ちゃん?兄ちゃん?晴大先生?…まさか河原塚氏ということは有り得ないだろう。
 オレの問いかけに、晴大先生が少し微笑みを浮かべた。
「光くんにあげるために作ったんですよ」
「…え…」
 …オレ?なんで?いつもあんな罵られて毎日蹴られてるのに。好いてる素振りも見せてもらったことないけど…
 …オレのために?
「なんで……」
 オレが驚いた顔を晴大先生に向けると、彼は苦笑した。
「保くんに好かれてないと思っていたんですか?」
 正直に頷くと、先生は笑みを深めてから、オレの頭に手を置いた。どきっとする仕草。そのまま、よしよしと小さい子にされるみたいに頭を撫でられる。


 どきどきするのに、ちょっと辛かった。
 これって完璧、保たち園児と変わらない。丸っきり子ども扱いだ。
 …やっぱり、晴大先生から見たら、オレなんて他の園児らと変わらないんだ。だって先生とオレ、7つも離れてるし。先生が小1の時オレ母ちゃんの腹の中だよ?先生が高2の時に、オレようやく小4だよ?
 そうだよ、なんで気づかなかったんだろう。先生は社会に出て働く立派な大人だ。オレは母ちゃんに食わしてもらって保の送り迎えだけしてるような高校生。
 初めから晴大先生の眼中にないのは当然だ。先生にとってオレは、ただ若い父兄の内のひとり。
 だから、ずっとオレのこと『保くんのお兄さん』って呼んでたに違いない。彼の中でオレは『由良川光』っていう個人じゃなくって、自分の持ち受けの『由良川保』中心で考えているから、『保くんのお兄さん』ってなるわけだ。よく考えればそうだ。他のお母様方のことも『エリカちゃんのお母さん』とか『翔くんのお母さん』って呼んでるもん。幼稚園内って、園児中心だから、保護者のアイデンティティは失われる結界が張られてるんだ。 
 オレはそれをすっかり失念していた。
 でも今日は、『光くん』って呼んでくれたから、てっきり結界が破られたかと思ったのに。
 やっぱそう簡単にはいかないか…。


 オレが少し俯いたのに気づかないまま、晴大先生が続けた。
「保くんは、光くんが自慢なんですよ。毎日嫌がらずにお迎えに来てくれて、嬉しいと思っているんです。クラス内のみんなも、保くんに優しいお兄さんがいることを羨ましがっています。お兄さんの話になると、保くんいつも嬉しそうに笑って話してくれるんですよ。その表情を見てるだけで伝わります。彼はきっと光くんのことをいちばん好きなんだなって」
「……でも、オレの前ではすっげー生意気で…」
 そんな話、容易には信じられない。だって今までの仕打ち考えたらとても…。年中オレを困らせることしか考えてないような輩だよ?そんな殊勝なこと考えてたなんて…。
「その折り紙、なんだか分かりますか?」
「分かりません」
 晴大先生の質問に即答すると、先生がオレの手から折り紙を奪って、空にかざした。


「ひまわりだそうです」


 もう沈みかかった夕日のオレンジ色を受けて、折り紙が明るく照らされる。
「光くんのイメージだそうです。太陽に向かってまっすぐ突き進んで、必ず太陽の方に顔を向ける。去年の夏に園内の花壇で育てたひまわりの話を覚えていたんですね」
 先生が再び折り紙をオレの手に戻してくれた。


「保くんと、お友達を捜しましょう。きっと無事です。そして、保くんが戻ったら、折り紙のお話を聞いてあげてください。嫌がりながらも、きっと話してくれるはずですから」


 泣きそうになる。
 そんなこと、そんな嬉しいこといっぱい言わないで欲しい。
 やっぱり先生はすごい。人の喜ぶコツを知ってるんだ。それに無条件で優しい。そんな風に笑って言われたら、もう信じるしかないじゃん。
 保の担任がこの人でよかった。あいつも、先生に感化されて、優しい人間になってくれればいい。
 早く保に会いたい。そんで、誤解しててごめんって言いたい。迎えに行くの遅くてごめんって言いたい。飛び蹴りされても肘鉄食らわされても売春疑惑流されようがいいや。
 全部許すから。
 だって、オレの大事な弟だもん。くそ生意気で可愛げなくて乱暴だけど、オレの弟なんだ。


「先生…」
 オレは折り紙を見つめて笑って言った。
「オレも今度折り紙作ってきます」




 オレの大好きな、保の分と、先生の分と。




 だからそのためにも、早く保を捜さなきゃ。


 一体どこ行ったんだよ…。










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 オレが轢かれかけた大通りの交差点まで戻ってみたが、それらしい怪しげな車は見つけられなかった。右手の平の傷を忌々しげに睨んでいると、晴大先生がそれに気づいたようで、慌てたようにオレの手首を掴まえて大きな声を上げた。
「どうしたんですか、この傷!?」
 先生が大声を上げるシーンを見たことがなかったので、ちょっと驚いた。慌てて右手を背中に隠した。
「な、なんでもないです!ちょっと転んで…」
「駄目ですよ、放っといたら!血出てるじゃないですか!破傷風になったらどうするんですか!」
「破傷風って…」
 そんな大袈裟な。ただの擦り傷なのに。
 先生を困らせてはいけないと思い、オレはその右手をぶんぶん振って誤魔化した。
「全然平気ですよ、こんなの!オレ頑丈だし…」
「ちょっと見せてください」
 交差点の歩行者用信号の前で向かい合って手を取り合う若い男性保育士と男子高校生の姿に、道行く人々が何事かとチラ見して行く。微妙に視線が痛いのは気のせいでしょうか…?あ、なんか金髪のお姉さんと目が合った。なんか親指立ててる。ウインクされた。なに?なんなのあの人。
 オレが怪しいお姉さんに気を取られている内に、晴大先生がエプロンから手際良くハンカチを出して傷の血を拭ってくれた。そしてなんとあろうことか晴大先生は、そのままオレの右手を持ち上げて、何のためらいもなく傷口を舐めた。


 どうわぁーーーーーーーっっ!!?


 オレが心で巨大な叫び声を上げて硬直していると、先生は周囲の目も気にせずにてきぱきとエプロンのポケットから絆創膏を取り出して、オレの傷の上に貼り付けてくれた。
「はい、コレでよし!擦り傷を舐めてはいけませんよ。以前に杏奈先生のクラスの子が滑り台から落ちて膝擦り剥いた時も……、あれ?光くん?」
 手当てを受けた右手が熱を帯びていた。舐められたのは嫌じゃなかった。寧ろ、こっ恥かしすぎて先生の顔が見れない…っ!!
 なにこれ!?どんな手当て!?晴大先生!!子どもたちにもこんな手当てしてんの!?
 晴大先生は、オレが俯いて赤くなって硬直していることに気づき、それからようやく周囲の視線に気づいてくれた。きょろきょろしてから、乾いた笑い声を上げる。
「あ、あはははは…!いや、本当に!舐めちゃ駄目なんですよ擦り傷でも!小さい傷口からでも感染する可能性が…」
「でも舐めてたわね」
「舐めてたあの人」
「あの人、お兄ちゃんの手舐めてた」
「こら、指を指しては駄目よ」
 ざわざわとどよめきが起こる。先生は居た堪れなくなったようで、オレの手を引いて交差点の信号前から道路脇の、花屋の前まで移動した。
「す、すみません光くん。なんだか俺動揺してしまって…」
「…動揺?」
 オレが顔を上げると、先生とばっちり目が合った。途端、先生が慌てたようにオレの手を離した。そしてしどろもどろになりながら言った。
「あ、いや、その…君が、怪我してるの見て…」
「…優しいんですね」
 オレが言うと、晴大先生は俯いた。その耳が赤かった。
 先生は本当に優しい。自分の受け持ちの園児ではない、オレにも。誰にでも優しいこの人なら、みんなに好かれて当然だよな…。
 でも、出来れば、オレだけに優しいとかだったら、すっげー嬉しいのに。調子に乗って図に乗りまくるのにな…。


「あれー?君……」


 オレと先生がお互い黙って俯いていると、花屋の若い店員さんが、オレを指差して声を掛けてきた。
「さっき、そこの交差点で車に轢かれかけた子?」
「え、あ、はい!そうです!!」
 オレが慌てて顔を上げると、その花屋の若い店員さんが、エプロンで濡れた手を拭いながら店前に出てきた。
「あの車ねー、最近あの時間になったらやたら飛ばして走ってくんだよ。危ないったらないよね。ここら幼稚園も近いのにさ」
 オレは先生と顔を見合わせた。
 なに!?ひょっとして、重大な証言くれてないか、この人!?
 オレは即座に食いついた。
「よくここ通るんですか、あの車!?」
「うーん、今月入ってからよく見るなあ。前もお婆さんが轢かれかけてすんごい危なかったんだよ」
「マジっすか!?その車のナンバー、覚えてません!?」
「いや…ナンバーまでは…。あ、でもちょっと待ってな」
 そう言いながら、その店員さんは店の奥に戻っていった。その後すぐに顔を出す。手にはケータイ。それを弄りながら、オレと先生にディスプレイを示した。
「いつか訴えてやろうと思って、前にケータイに撮っといたんだった。コレ。こいつがその時運転してた奴」


 その犯人の姿を見た途端、晴大先生が声を上げた。


「あーー!この人……!!」











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 犯人が分かったという晴大先生に連れられて向かった先は、幼稚園だった。 
 保の通う幼稚園ではない。隣の学区内の幼稚園であった。大通りの花屋から歩いて15分ほどの距離だった。
「先生、ここは…?」
 何の変哲も無い私立幼稚園だ。お迎え時間ラッシュは過ぎた為か、門前には人はいなかった。
「あ!」
 人はいなかったが、門前の反対車線の道路脇に、見覚えのある車を発見した。
 オレを轢きかけた黒いワンボックスだ!!
 オレがその車に走り寄ると、晴大先生が後をついてきた。車内を覗き込むが、誰もいない。
「この車ですか?」
「はい、コレです!なんでこんなとこに…」


「光ーー!!」
  

 
 車を覗き終わり、顔を上げた時だった。嫌になるほど聞きなれた甲高い声が、オレの背中にぶつかった。
 急いで振り返ると、幼稚園の門から駆けてくる保が見えた。笑顔全開で駆け寄ってくる。


「保……!」


 よかった!!無事だったんだ!!つーか、なんでよその幼稚園に?でもまあいいや!!とにかく無事でよかっ――――




「おそいんじゃ!!ぼけーーーーーー!!!!!」





 奴は天使のような笑顔を180度転換させて、鬼の形相でオレの背中に飛び蹴りを食らわせた。








「いっでええええ!!」
「ひ、光くん!?だ、大丈夫ですか!?」
 背中を蹴られた直後、咄嗟に先生が支えてくれたものの、5歳男児の全体重の乗ったハイキックは些か強力であった。しかも不意打ちだし。
「こ、殺す気か保…!!お前、実の兄を…」
「ころされるすんぜんだったのは、おれたちのほうだーー!!」
「はあ?」
 オレが声を裏返すと、保が鼻息荒くオレと晴大先生を睨み付けた。
「てか、河原塚氏は?一緒じゃなかったのか?」
 オレの質問に、保が憮然とした態度で答えた。
「ねてる」
「はああ?」
 意味不明だ。
 オレは晴大先生と顔を見合わせた。






「もう!!10分も遅刻じゃない!!間に合わないじゃない!!どうしてくれるのよ!!」
「す、すいません!!姫!!」
「もうパパに言ってお給料下げてもらうから!!」
「そ、そんな…!!勘弁してくださいよ!これ以上下がったら、俺一日白湯の生活に…!!」
「しらないもーん」
「姫ーーー!!」


 幼稚園内に侵入すると、一番奥まった教室に、保と同い年くらいの女の子がちょこんと椅子に座って腕組みをしていた。柔らかそうな頬っぺたはぷうっと膨らんでいて、明らかにご機嫌斜めのご様子でいらっしゃった。その彼女の前で正座しているのは、黒ずくめの若い男性二人。一人は眼鏡を掛けていて、一人はニット帽をかぶっている。ニット帽の方が、必死になって女の子のご機嫌を取ろうとしていた。そんな彼らと少し離れて、教室の隅っこで、毛布に包まれた河原塚氏がうんうん唸って寝そべっていた。



「……なにこれ、どういう状況?」
 オレが頭の天辺に?マークをたくさん浮かべていると、女の子がオレたちの存在に気づいて立ち上がった。
「晴大先生ーー!!」
 彼女の機嫌が一気に霧が晴れたかの如く快方に向かったのが見て取れた。だって抱きついてるもの。晴大先生の足に。がっちりと。
 オレが軽く咳払いをすると、晴大先生が慌てたように言った。
「小春ちゃん、元気そうだね」
「晴大先生!ひどいわ!一度も小春のおうちに遊びに来てくれないし、一度もこっちの幼稚園にも来てくれないんですもの!小春寂しかったー!ママだって、あれからずっと溜息ばっかり吐いてて…」
「あああ!小春ちゃん、早くしないと間に合わないんじゃないのかなあ!?」
 小春ちゃんが涙を浮かべて晴大先生の足に縋るのに対し、先生は慌てた様子で彼女の言葉を遮って教室の時計を指差す。すると、小春ちゃんがぴょんと跳ね上がった。
「いっけない!そうだわ、急がないとピアノ遅れちゃう!今度のピアノの先生は晴大先生より男前だってママが言ってたわ」
「それはよかった」
「姫!急ぎましょう!」
 晴大先生が妙な汗を浮かべながらにっこり笑うと、眼鏡が立ち上がって叫んだ。ニット帽をどついて立たせる。小春ちゃんも、慌てたように二人の後に続く。
「いい加減、道覚えなさいよ!!何度迷ったら気が済むの!?そんなに距離も離れてないのに!」
「だったらナビをつけて下さい!」
「ナビをつけたら道を覚えないからってパパが…」
 がやがやと嵐のように3人が教室を出て行く。オレはニット帽の背中に声を掛けた。
「人だけは撥ねるなよー」
「撥ねてねーよ!!今のところは」
「今のところかよ!!」
 しばらくすると、急ブレーキ音が響いたが、もう無視することにした。






「で?」
「『で?』って?」
 オレの一音での問いかけに、河原塚氏の顔をうちわで扇いでいた保が顔を上げた。
「なんでこんなとこにいるんだよ?しかも、なんで河原塚氏うなされてるんだ?」
「さっきの人のうんてんによったんだってー」
「方向音痴な上、運転が荒いから余計に……うぇぇ…」
 薄く目を開いた河原塚氏が嘔吐きながらも、保の回答の続きを答えてくれた。
「てっきり誘拐だと思って心配しただろ。ケータイも繋がらないしさー」
 オレも保の隣にしゃがみ込むと、河原塚氏がぐったりと目を上げた。
「君が遅いのが悪い。君を捜しに出たところで運悪くさっきの二人組みに撥ねられたんだぞ僕は」
「え!!マジで!?大丈夫!?」
 その割には外傷が見当たらないけど。河原塚氏の手やら足やらを持ち上げて点検してみたが、別段変わったところはない。鼻の頭が多少擦り剥いてるくらいか。
「…撥ねられたというか、咄嗟に避けた瞬間に、両足を交差させてしまい、そのままバランスを崩して地面に衝突してしまったのだ。そして丁度その時、君から着信があったのだが、手で踏ん張った時に誤ってケータイを思い切り踏み潰してしまったのだ。そして自分で転んだという余りにも情けない現実から逃れたかった僕は、思わず撥ねられた振りをしてしまったのであった―――」



「『しまったのであった――』じゃねええーーーー!!!」
「そうしたらなんとその二人、僕を病院に連れていくどころか、『急いでるから』『姫がうるさいから』とか何とも理不尽な理由で僕らを車に乗せて、へたくそな運転でここまで連れてきたのであった――」
「その言い方、やめろーー!!腹立つわさっきから!!ていうかオレの所為じゃないじゃん!鈍くさい河原塚氏にも非があるじゃん!!」
 オレが喚いていると、背後で晴大先生が苦笑して現れた。
「ま、まあまあ。とにかく二人とも無事で良かった。最近誘拐が多発しているっていうお知らせを渡したばかりだったから、本当に心配してたんですよ」
「晴大せんせ…」
 晴大先生の120パー癒しを与えてくれる笑顔に、保が珍しく瞳を潤ませた。
「うちの幼稚園の方にも伝えておきました。保くんが無事だったって。杏奈先生に頼んで、警察の方にも連絡してもらうようにしておきましたんで」
「すみません、ご迷惑お掛けして…」
 オレが先生に頭を下げると、晴大先生は慌てたように言った。
「いえ!とんでもない!本当に無事で良かったです。保くんも、光くんも…」
 ん?オレも?
 きょとんとしていると、先生がオレの鞄を示した。
「光くん、アレを保くんに」
「あ…」
 そうだ。折り紙。
 無事に見つかったら、折り紙の話聞くって…。


 オレは鞄を開けて、なんだか妙に照れ臭くなりながらも、ひまわりの形らしい、黄色い折り紙を保に手渡した。
「あ、おりがみ」
「お前、これ…好きな人のために折ったんだろ?」
 保が、小さい手で折り紙を大事そうに包み込む。オレの問いに、こっくり頷く。
「すきなひとのために…」
 確かに予想通り、飛び蹴りされたけど…。でも、本当に無事で良かった。罵られても、ハイキックかまされても許せるや。やっぱ大事な弟なんだし…。
「保…」
「これ、あげる」



 保が折り紙を差し出したのは、オレではなかった。



「いいのか?大事なものなのでは?」
「いい。あげる」



 オレはその場に立ち尽くした。晴大先生は頭を掻いて苦笑中。



 保が手渡した相手は、最悪の中でもダントツトップの河原塚氏であった。



「では、喜んで戴こう」


 





 










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 保が河原塚氏を選んだという衝撃的な事実に、オレが呆然と立ち尽くしていると、保が振り返ってオレに言った。
「おれ、河原塚くんにおくってもらうから、光はせんせにおくってもらえよ」
「………はい」
 どっちが兄だかわかりゃしない。
 オレはぼんやり頷くしかなかった。酔いが治まったらしい河原塚氏が立ち上がった。
「今度こそ僕が責任を持って家まで送り届ける。幸い、ケータイも直ったようだ」
「嘘!?手の平で踏んづけたのに!?」
「僕の心と等しく硬く壊れにくいのだきっと」
「へー」
 保が適当な相槌を打つ。そして河原塚氏と手を繋いで教室を出る。
 その時に、立ち止まってからオレたちの方を振り返った。にっこり神の使いのような笑顔を浮かべる。

「あしたはちゃんとむかえにこいよな。こなかったら光のはずかしいはなしを晴大せんせにばらすぞ」
「…………謹んでお迎えに上がらせていただきます」


 前言撤回っ!!可愛くねえぇっ!!





 お借りしていた教室の保育士の先生に挨拶をしてから、オレは先生と並んでその幼稚園を後にした。どうせなら保と河原塚氏とそのまま帰れば良かったのだが、どうしても晴大先生に聞きたいことがあったのだ。だから、保の申し出を甘えて受けさせてもらった。…まあ、あいつがそこまで考えてたかは甚だ疑問だけど。いや、考えてないな。うん。考えてない方向で。そしてきっと家に帰れば、蹴られるに違いない。
 オレがその様子を思い浮かべてぐったりしていると、晴大先生が心配そうな様子でオレの顔を覗き込んできた。
「光くん?大丈夫ですか?疲れたんじゃないですか?」
「あ、いえ!体は元気です!心が重苦しいだけで…」
 保の所為でな。という最後の一言は削除しておく。
 先生と並んで、すっかり夕焼けに染まった歩道を歩く。なんか先生と二人きりで歩くなんて不思議な感じ。つーか、初めてだ。いつも立ち話するか、教室で座って話すくらいだし。
「…こうやって、光くんと並んで歩くのは初めてですね」
 先生がぽつりと放った一言に、思わず失笑してしまう。同じこと考えてたのか。
 オレが低く笑っていると、晴大先生が戸惑った表情を見せた。
「ど、どうしたんですか?」
「いえ、同じこと考えてるなーと思って…」
 オレがそう言うと、晴大先生も小さく吹き出した。それから、
「「あの」」
 声がかぶった。思わず立ち止まって両手を差し出す。
「すいません!先生からどうぞ!」
「いえ、光くんが先に。なんでしょう?」
 呑気に笑ってる場合じゃなかった。気になってること、聞かないと。オレは下っ腹に力を込めて、来たるべき衝撃にいつでも耐えられる準備を怠らないよう構えた。
「…晴大先生、あのワゴンの運転手、顔見知りだったんですよね?小春ちゃんの父兄だって」
 オレの質問に、笑顔を絶やさなかった先生が、一瞬真顔になった。そして、大きく息を吐くと、前方を示した。
「あの公園で話しましょうか」
 正面に見えてきた、例の保らが連れ去られた現場を示して言った。



 お母様方はもう帰ったらしい。あの人たちにも迷惑かけたな。明日、謝らないと。
 その彼女らが陣取っていたベンチに並んで腰掛けると、先生が話し出した。
「小春ちゃんは先月まで、うちの幼稚園に通っていました。杏奈先生のクラスで、いつもあの二人の父兄の内、交代でどちらかがお迎えに来られていました」
「あんな目立つ人たち、いましたっけ?」
 オレが問うと、先生は首を横に振った。
「小春ちゃんの家はうちの幼稚園から徒歩5分ですから、いつも一番にお迎えに来ていたんです。勿論徒歩でですよ。小春ちゃんは5歳でありながら、毎日習い事をしていて、その習い事教室に送り届けるのが彼らの役目だったのです」
 毎日習い事って、偉いな。保なんか家帰ったらアニメばっか見てるぞ。
 オレが感心していると、晴大先生が続けた。
「彼らは小春ちゃんのお父様の部下の方たちなんです。彼女の父親は建設業を営んでいらして、かなりお年を召した方故、初のお子さんを溺愛されていました。だから信頼できる部下に、小春ちゃんのお迎えを任せていたのです」
「…え?お母さんは?」
 小春ちゃんの言ってた台詞を思い出す。
『ママだって、あれからずっと溜息ばっかり吐いてて…』
 ってことは、ちゃんとお母さんはいるんだよな…?
 オレの問いかけに、晴大先生が言い難そうに目を伏せた。
「…その…小春ちゃんのお母様というのが、かなりお若い方でして…。小春ちゃんのお父様が、幼稚園のお迎えに行かせるのを嫌がったんです。…というのも、その奥様が、かなり男性好きな方で、お父様がかなり苦労されてるとかで…」
「それって…」
 晴大先生がいるからってことか?
 確かに、若くてかっこいい男性保育士がいるなんて、珍しいものな。小春ちゃんのお父さんの気持ちも分かる気がする。こんなかっこいいんだから、男好きの奥さんが放っておくはずが…………


 やばい。バカのオレでも、この先の展開が読めた。
 だって、小春ちゃん実際、別の幼稚園通ってる訳じゃん?



「…晴大先生」
「はい?」
 晴大先生と入れ替わりのように目を伏せたオレが低い声を出すと、先生が眉を寄せた。
 オレはゆっくり顔を上げた。


「…まさか…、その奥様と……」


 オレの地獄の底で響くかのような低い声に、晴大先生がベンチから勢いよく立ち上がった。


「まさか!!!違います誤解です!!小春ちゃんのお母さんとは一度門前で擦れ違って挨拶した程度です!!それに俺が好きなのは……っ」
 

 一息で真相を暴いた晴大先生だったが、最後の一文を、はっとしたように飲み込んだ。



 オレはそれを呆然と見上げていて、危うく大事な箇所を聞き逃すところだった。
 晴大先生が、自分が立ち上がっていたことに初めて気づいたように、慌ててベンチに座りなおした。早口で言う。
「とにかく、お母様とは何もなかったんですが、こう、その、何かと他のお母様方に俺のことを聞きだしてたらしくて、それが小春ちゃんのお父様の耳に入って、とうとう先月転園されたんです。それで少しお家から離れた幼稚園になったために、毎回あのワゴンが猛スピードで駆け抜けていくという事態になったんですね。でもまさかその車に保くんたちが乗ってただなんて…」
「先生」
 オレの声に、晴大先生がようやくこちらを見てくれた。
 

 オレはずっと聞きたかったことを聞いた。



「晴大先生の好きな人って、誰なんですか?」



 オレの真摯な声に、先生が真っ直ぐこちらに、体ごと向き直った。


 聞きたくない。


 でも、今聞かないと一生聞けない気がした。絶対後悔すると思った。
 でも、オレの十八番のポジティブが前に出てこない。だって先生、あれだけお母様方に人気あるんだし、男前だし優しいし子どもにも好かれてるし、こんないい人周りが放っておかないだろう。彼女がいて当然だ。
 でも、当然だけど、当然だって思うけど、ちゃんと晴大先生の口から聞いておかないと、オレ自身が納得できない気がした。
 でも、もうなんか彼女がいてもいいや。


 だって結局は、オレがどうしたいか、なんだ、きっと。






 オレは先生の回答を待たずに口を開いた。




「オレは晴大先生のことが好きです。大好きです。先生の笑顔が見たくて、毎日保のお迎えに来てたようなものです。先生と話せるだけで、すごく嬉しいんです。元気が出てくるんです。オレの十八番はポジティブなところなんですけど、先生と会っただけでそれが100倍になるっていうか、上手く言えないんですけど……」
「…光くん」
 先生がオレの声を掛ける。オレはそれを首を振って止めた。
「いいんです分かってるんです!先生にとってオレは、単なる父兄の一人だって!ずっと『保くんのお兄さん』でいなきゃいけないってのは分かってたんですけど…っ」


 でも。
 でも――。



「『光くん』って呼んで、走ってきてくれて、嬉しかったんです」
 


 オレはずっと、先生に『由良川光』個人として認めてもらいたかった。
 それだけで充分。






「――迎えに行きます」




 上から聞こえる声に、オレはゆっくり顔を上げた。感情が昂ぶり過ぎて、すっかり晴大先生の顔を拝むのを忘れていた。
 先生がオレの頭に手を乗せてそっと撫でながら、オレの好きな笑顔を浮かべていた。




「一年後、保くんが卒園したら、俺は君を迎えに行きます」
「え…」
 思いがけない回答に、目を見開く。
 晴大先生の手が、頭から、オレの左頬へと移動する。優しく撫でられて、オレの心臓が不規則に跳ねた。親指の腹で、ゆっくり唇をなぞられた。
「それまで我慢します」
「我慢…?」
 晴大先生が名残惜しそうに手を離した。オレも少し寂しくなった。
「今のところ、俺と君は保育士とその保護者ですから。その関係が終わった後になら、問題ないですよね?」
「あの、それって……」
 先生が、唐突に自分の親指を舐めた。
 オレの唇を奪った右手の親指。
 そう思うと、全身に熱が高速で行き渡ったのがわかった。


「楽しみが増えましたね」


 ポジティブなのは、オレだけじゃなかった。


 輝かしい日々が始まるのは、これからずっと――。












<END>
















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議題:運命は己で切り開けるか否か


「瀬尾くん、君は何星人だい?」
「日本人です」
 

 放課後、放課後治安委員の活動教室と指定されている生物室で、俺は出された物理のレポートに苦しまされていた。鬼のような量に、俺は半泣きで取り掛かっていたのだが、名越は俺が構ってやらないことに拗ねたのか、しばらく静かにしていたが、先程突然思い出したかのように鞄を漁って何か本を取り出してぶつぶつと読み始めたのだった。気味が悪かったので、しばらく放置していたのだが、奴の口に休日はなかった。
 三嶋たちはまだ来ておらず、なんとか俺の代わりにこの変態の相手をしていて欲しいと願っていたのだが、いつも俺の希望は叶えられないのであった。


 名越が大袈裟に溜息を吐いてから言った。
「瀬尾くん、君は僕の質問を聞いていなかったのかい?僕は君に、『何星人か』と問うたのだ」
「あんたこそ正気ですか。地球人以外なんて答えればいいんですか。アホですか」
 レポートから顔を上げずに罵ると、ようやく名越がむっとした様子で、俺の手からレポート用紙を奪った。
「あ!何するんですか!まだ途中なのに!」
「君は僕との会話より、このレポート用紙との逢瀬に夢中なのか!?」
「ツッコまないぞ!断じてツッコまないからな俺は!なんなんですか!あんた、俺が単位落として留年してもいいと思ってるんですか!?」
「思わない!寧ろ飛び級でも禁じ手でも何でも使って僕の隣に君の席があればいいといつも思っているさ!!」
「いつも思ってるんですか!?」
 俺が苛々している様子を見て、流石に名越も一度落ち着こうと思ったのか、大きく息を吐いた。
「レポートなど、後で僕がいくらでも手伝ってあげよう。だから今のこの時間くらいは、僕とのトークを楽しんでくれたまえ」
「あんたと話してると寧ろ苛々が募るんですけど。レポートとジェットコースター乗った方がマシなんですけど」
「乗れるものなら乗ってみたまえ」
 おっと。最近切り返しが早くなってきたな。チクショウ、可愛くないなっ。
 俺がむすっと名越を睨んでいると、名越が気にせず、さっきから読んでいた本を取り出した。
「クラスの女子に借りたのだ。これで何星人とかが分かるのだ。さあ、僕が占ってあげるから、君の誕生日を教えたまえ。確か10月生まれだったね」
「知ってるんじゃないですか」
 ていうかなんで知ってるんだ。俺が疑いの目を向けていると、名越がしばらくしてから告げた。
「……ほう!木星人だ!君にぴったりだ!」
「………そうなんですか。レポート返してください」
「真面目で几帳面で忍耐強いと書いてある!」
「そうですか。レポート返してください」
「ほほう!恋愛下手だと書いてある!シャイな君にぴったりだ!」
「そうですか。レポートいい加減に返してください」
「ちなみに僕は土星人らしいのだが、君との相性はいまいち……」
「レポート返せっつってんだろーーーー!!!!」


「何だよ何だようるせーな。外まで響いてるぞ眼鏡。名越センパイに伸し掛かられて突っ込まれた以外はここで絶叫すんなっていつも言ってんだろうが」
 俺の叫び声と共に、七尾が三嶋と共に教室の扉を開いた。
 俺は名越の襟元を絞めたまま、鋭く振り返った。
「お前が先に死にたいか、七尾」
「やあ七尾くん。出来れば早く助けてくれたまえ。いかんせん喉元が苦しくてたまらないのだ…」
「センパイ、顔色おかしいですよ」
「ストップストップ瀬尾!やばいから!名越先輩の顔色、泥に近くなってるから!!」
 三嶋が慌てたように、名越の襟から俺の手を剥がした。ふーふー言っている俺を、どうどうと諌める。
「つか何で絞殺しようとしてたんだよ。ていうかいつも誰かを絞めてるなお前は」
 三嶋の質問に、名越が何度か咳をした後に答えた。
「占いの話をしていたのだ。ちなみに君たちは何星人だい?」
「オレ金星人ー。女子に、ピッタリだねって褒められた」
「俺知りません」
「ふむ、誕生日はいつだね三嶋くん。確か12月だったね」
「知ってるんじゃないですか。なんで今敢えて聞いたんですか」
 三嶋のツッコミに構わず、名越が少し正常に戻った顔色でページを繰る。
「水星人だね。ほう、セックスが好きで特に後背位を好むと書いてある!」
「ちょっと待ってください。なんでそこだけ抽出して音読するんですか。もっと他のいいこと挙げてくださいよ。生物室で後背位って言われても…」
「近澤くんは火星人か。見事にバラバラだね!」
「人の話を聞いてください先輩」
 三嶋が悲しげな表情で名越に訴えかけたが、奴は気持ちいいくらいに流してから溜息を吐いて、机に頬杖をついた。
「しかし悲しいものだね。人は結局星に支配されざるを得ないということか。もう生まれた瞬間に運命が決まっていただなんて、何とも悲しいと思わないかい」
 意外だった。ゴーイングマイウェイならぬ、強引マイウェイな名越が占いを信じてるなんて。俺が密かに関心を抱いていると、名越が唐突に本を持って席を立った。七尾が声を掛ける。
「あれ?どこ行くんすか?」
「返してくる。ここに記されていることだけで僕という人間が決定されるわけではない。僕の相性の良い相手は、僕が自分で見つけるさ」
「いい心がけですね」
 三嶋がそう言って見送った。


 が、しばらくして近澤が教室にやってきて言った。
「…名越先輩、どうかされたんですか?さっき、猛ダッシュで学校出てコンビニ向かってましたけど…」
「はあ?コンビニ?」
 ようやくレポートに集中できたと思ったその直後、生物室の扉が開いた。


「諸君!!大変だ!!大殺界というものがあるらしいぞ!!」


 …やっぱ信じてんじゃん……。









以上

 








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 クロが俺の腹の上に馬乗りになって、真っ直ぐ俺を見下ろしている。
 出会って四年目で、初めて見た表情。冷たい瞳。今まで、こんなクロの顔を見たことが無い。
 いつだってクロは俺のことを許してくれた。どんな些細なことで喧嘩しても、結局折れるのはクロだった。それを俺は心のどっかで信じ切っていて、甘えていた。クロになら、どんなことをしてもいつかどっかで絶対許してくれるはずって、思い込んでた。
 クロが、こんな軽蔑した目で俺を見るなんてこと、想像だにしてなかった。


 クロが無言で俺のベルトに手を掛けた。慌てて止めようともがくと、その手を片手で押さえこまれた。容赦のない力に思わず悲鳴を上げる。頭の上で纏めて押さえ込まれる。
 全身の血の気がさあっと引いていくのが分かった。
 いや、ここまで来たら流石の俺でも分かるよ。
 クロが、何する気なのか、なんてことくらい。



 …ああ、最悪だ。最悪な時に最悪なことって重なるんだやっぱり。



 俺が諦めの滲んだ眼を向けると、クロが顔色一つ変えずに言った。



「…乱暴にされたいのかよ」



 されたいわけねーだろっ。



 マジで、最悪だ。



 恋人に犯されるなんて、最悪以外、なんと呼べばいい?























 『年明けから一緒に住もう計画』は、年末には破綻しかけていた。
 俺の今住んでいるアパートの契約の問題やら、クロの引越し資金の貯蓄が今一つ芳しくなかったり、良い物件が取られてしまったりと、なかなか順調とは言えない滑り出しを見せていた。
 んで、まあとりあえずなんとか目処が立って、3月半ば頃には引越しも終わって、一緒に生活できる、予定だった。



 んで、今は2月半ば。
 俺のアパートの方もそろそろ片付けないとなーと、ぼんやり思っていた頃に、トラブルははるるんが両手で抱えて運んで来やがった。
「のんちゃんのんちゃんのんちゃん!!!!」
 単位が危うく、特別学期までクソ真面目に参加している俺の隣に、十香が滑り込んできた。講義が終わった直後を見計らって教室に飛び込んできたのだろう。教壇の助教授が教科書を閉じたところだった。周囲の学生が、何事かと俺の隣の派手なトラブルメーカーを見遣る。俺は鞄に教科書を詰めながら、そんな周囲の冷たい視線にも構わず淡々と尋ねた。
「なんですか春村さん。ここ文化人類学の教室ですけど」
「そうなんだ!道理で年下が多いよねっ!って、のんちゃんまだ単位取ってなかったの!?」
「だから今頑張ってるんですけど。邪魔しないでくれない?」
「もう授業終わってるじゃん!あ、こんなこと話してる場合じゃないよ!大変だよ、のんちゃん!!ピンチだよ!?」
 十香が、周囲の怪訝な視線を他所に騒ぐので、俺の方が居た堪れなくなってしまい、早々にその教室を後にすることにした。
 とりあえず一番近いカフェテリアまで移動すると、ようやくココアを飲んで落ち着いた十香が、紙コップを握り締めて俺の方を覗き込んできた。
「のんちゃん、落ち着いて聞いてね?」
 落ち着くのはそっちだろうと思ったが、面倒なので黙って頷いてみせると、十香が声を潜めた。
「…文学部の、深田眞織って子、覚えてる?」
「ふかだ…まおり?」
 変わった名前。いや、人のこと言えないけど。
 俺が眉を寄せて唸ると、十香が焦れたように貧乏揺すりを始めた。気が散るのでよしてほしい。
「英文学専攻の子。ほら、背の低い、ちょっとふっくらした感じの、すんごい猫毛の…」
 十香の曖昧なヒントを得て、俺はぼんやり思い出した。
「飲み会に何回か来てた子?」
「そう!二年の時によく来てた子!思いだした?」
「いやー、女子ってみんな似たような格好してるからなー、化粧で大分変わるし、俺の中で多分あの子だろうという予測はできている」
「曖昧!!曖昧すぎるよのんちゃん!!ちゃんと思い出して!!」
 必死な様子の十香に、俺は圧倒された。身を乗り出し、真っ直ぐこちらを睨みつける勢いの十香は、正直ちょっと怖かった。
「なに?その子がなんかあったの?何が大変なんだよ?」
 十香が、自分自身に落ち着きを取り戻させるためか、大きく息を吐いてから、ホットココアを一気に飲み干した。
「……落ち着いて聞いてね」
 十香が更に声を低めた。


「妊娠してるんだって」



「へえ…、おめでたいね」
「のんちゃん!!何を呑気にっ!!」
 俺の発言に、十香が勢いよく席を立った。隣のテーブルの学生カップルが揃って十香を驚いたように見つめている。俺はそのカップルを気にしつつ、十香を落ち着かせるよう両手で制して着席させた。
「いや、話が見えないんですけど。その子と俺と一体何の関係が……」
「だからっ!!」
 十香が、もどかしくてたまらないと言った表情を浮かべてから、言い放った。
「のんちゃんが父親だって言い触らしてんだって!!」


「はあ……?」


 俺はマヌケな声を上げることしかできなかった。




 最悪は、ここからスタート。










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 ノゾミと違い、至って順調に単位を取得していたオレは、バイトに就活に引越し準備にと、慌しい日々を送っていた。
 三年振りに登場してもらったスーツに袖を通せば、出会う友人全員から、「ヤクザから地上げ屋に格上げした」と言われた。
 どういう意味だ。というか、どういう風に格上げしたのか具体的に述べて欲しい。
 そして気になるのは、オレよりノゾミの方だ。
 …就活…してるんだろうか…?最近学校でしか見ないけど。いや、補講にまみれているという話は聞いてるけど、大丈夫かあいつ。
 なんだかんだでお互い忙しくてあんまり会えていない。新しい部屋の相談もしたいのだが、なかなか捕まらなかった。
 それが、2月半ばの話。
 トラブルは、春村が肩に担いで持ってきやがった。





「…黒川くん…書類選考、通ってる?」
「…何が言いたい?」
 大学構内の就職部で、リクルートスーツ姿の春村と遭遇した途端、こんな台詞を投げつけられ、不愉快極まりない。オレが彼女を睨みつけていると、周囲の学生らが目を逸らしてその場から去って行った。それを見送りながら、春村がにこやかに微笑む。
「何社落ちたの?」
「…普通、受かった数を聞かないか?」
「えっ!?内定貰えたの!?」
「まだだけど」
「だよねー。それじゃあねー。ヤクザか暴力団か地上げ屋以外、道はないもんねー」
「人をさらりと傷つけるような台詞を吐くお前は教師になるな」
「地道に頑張ってるんだね。人は見かけによらないってこと、多くの人に伝わってほしいよね」
「人の話を聞けない奴が教師になるな」
「あ、のんちゃんとの新婚生活、決まったんだってね。おめでとう」
 春村が拍手をして、オレのツッコミをスルーした。カウンターを食らったオレは、就職情報の敷き詰められた掲示板で前頭部を強打した。
 新婚生活。
 その言葉に、リアルな空想が一瞬頭をよぎる。
 …………。
 いかん、しっかりしろオレ。春村の言霊に惑わされてはいけない。奴は人を暗示に掛けて洗脳する能力に長けている。そのことは、高1から付き合いのある自分が一番心得ている。
「…そっちこそ。なんでこんなとこにいるんだよ。教員試験ってもう募集してんの?」
「ううん。まだ。でも、一応どんな募集あるかだけでも見ておこうかなと思って。一発で教員受かるとも限らないし。良いとこあったら、そっちでもいいかなって」
「教師はやめといた方がいいと思うけど」
「親にも先生にも言われて聞き飽きたよ。もっと面白いツッコミしてくれなきゃ黒川くん」
「無茶言うな。オレのところでハードル上げるな」
「ところで黒川くん。今から時間空いてる?ちょいとお茶でもしませんこと?」
 唐突な春村の申し入れに、オレは嫌な予感しか抱けなかった。


 渋々連れ立って、就職部に一番近い食堂まで移動する。時間帯が微妙なためか、空席がほとんどだった。食堂内のおばちゃんたちが片付けに精を出していた。
 珍しく春村が奢ってやるというので、オレは益々嫌な予感が募った。もう一刻も早く逃げ出したくなったが、冬季限定桜飛大オリジナルキャラメルプリンをご馳走してやるとまで言うので、仕方なく付き合ってやることにした。
 プリンを目の前にしてプラスチックのスプーンを咥えるオレを、頬杖をついて春村が見守りながら言った。
「…ほんと甘党だよね」
「いいだろ別に」
「のんちゃんも甘いのかしら〜?」
「!!」
 気管にプリンが詰まった!!死ぬほどむせる。側の水をがぶ飲みしてから、春村を睨み付けた。
「そういう話だったら帰るぞ!?」
「どうどう。落ち着いて、黒川くん。そういう話じゃないの。もっと、すんごい重要な話なの。落ち着いて聞いてちょうだい」
 春村が、プリンを放置してまでして立ち上がったオレを見上げて、のんびり諌めた。オレは再び仕方なく着席した。プリン、まだ食いかけだし。食い終わるまでは話を聞いてやろう。
「なんだよ、すんごい重要な話って」
 スプーンで春村を示して促すと、彼女は珍しく言おうか言うまいか悩んでいる風だったので、余計にその話に興味が湧いてきた。
「なに?ノゾミの話か?」
「ううん。…でも、のんちゃんも最終的に関わってくる話」
 それならば、きちんと聞かねばなるまい。オレは食うのを一時中断させて、春村を見据えた。
「何?」
 オレが短く尋ねると、春村がようやく決心したように顔を上げた。
「黒川くん、サトルくんって覚えてる?」
「サトル?」
「軍司怜」
 フルネームで言われてもピンと来ない。オレが首を斜めに傾けていると、春村が声を潜めた。
「あたしらが3年だったとき、1年でいたでしょ。小柄で可愛らしい感じの。見るからに受けっぽい…」
「それはお前のみの主観だろ。ん?高校の時の後輩?」
「一瞬だけ野球部だった子。ほら、珍しく黒川くんに懐いてた後輩で、怪しいって噂が出て辞めてった…」


 思い出した。いた。そうだ。あの事件の所為で、オレはその後、友人を作るのに非常に苦労したのだ。ノゾミの場合も然り。春村にノゾミを紹介することで、また妙な噂を流されてはたまらんと、余計な気を揉まされたのだった。
「…ほんっと、お前ってオレの人生にちょっかいかけてくれるよな細々と妙なタイミングで」
「お褒めに預かり光栄ですけど黒川くん。呑気にしてる場合じゃないから。マジでピンチだよお宅」
「何が」
「春から桜飛入るんだって。一浪して、法学部に」
「へえー…法学部って結構賢いんだっけ?」
 何がピンチなんだろう?ぼんやり考え込んでいると、春村が大きく溜息を吐いた。


「黒川くんを追いかけてきたみたいなんですけど」


「…はあ?」


 オレはアイドルかっ!
 というツッコミは上手く出来ず、声を裏返すのが精一杯だった。


 こうして、しんどい時にしんどいことは重なってゆく。












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 オレはプリンの存在を忘れて、春村の方へ身を乗り出した。
「何だよ?どういうこと?お前の説明分かりにくい。なんで、その軍司がオレを追ってくるわけ?だって高校時代ほとんど関わりなかったし、あいつが部抜けてからもほとんど顔合わさなかったぞ?」
 オレの質問に、春村が自分のコーヒーを啜ってから答えた。
「そっか、黒川くん知らなかったんだね。サトルくんが野球部辞めた本当の理由」
「…お前の撒いた変な噂の所為だろ」
 ぼそっと答えると、春村が目を見開いた。
「え?あたしが撒いたんじゃないよ!?」
 カチャンと音を立てて、コーヒーカップをソーサーの上に置いた。驚いたようにオレを見つめる。
 …あれ?なんか思ってたリアクションと違うぞ。
 オレは戸惑いながらも正直に答えた。
「だから、あれだぞ?オレが後輩に慕われるなんて珍しいから、『できてる』みたいなそういう系の…」
「ええええ!?何それ!!?確かに勿論怪しいとは思ってたけど、流石にあたしじゃないよ!?部内の変な噂あたしが撒く訳ないじゃん!!なんでその時言わないのよ黒川くん!!いや、そりゃああたしだって密かにそれはずっと思ってたけど、やっぱ高校生だし、ちょっとは恥じらいっていうか、あんまオープンにあたしの腐を振りまいちゃうのもどうよって感じだったから、敢えて言わないでいたのにぃ…!!」
 がくっと大袈裟に春村が机に突っ伏した。が、すぐさますごい勢いで顔を上げた。オレに間近で詰め寄る。
「誰!?誰が言い出したのそんなことっ!!」
「…し、知らねえよ。お前じゃないなら。そういう話だから、オレはてっきり春村かと…」
「だから!!高校時代は隠す方向で行ってたの!!あたしは!!…まあ多少は…黒川くん辺りにはちらちら言ってたかもしんないけど…」
「言ってんじゃねえか!!」
「でも!例えぽろりと黒川くんに言ってたとしても、流石にサトルくん本人には言わないよ!」
 …そうだろうか。
 いや、そうだろう。そういえば春村は、今でこそこのように救いようがないが、高校時代は結構真面目な野球部マネージャーだったのだ。オレの前では結構弾けてたが、他の連中(主に後輩)の前では、良い先輩っぷりをアピールしていたようだった。実際、後輩数名が春村に惚れたという話もあった程だ。勿論彼女はあっさり振り続けたのだが。ちなみにその時の、彼女の断り文句が強烈だった。
「ありがとう。でも、あたしじゃなくて、坂下くんはどう?彼結構背高いし」
 ……告白を受け、同じ部の男を勧める女がここにいたのだ、確かに。
 無謀にも果敢に挑んだ後輩らは、体よく振られたと思いこんだらしいが、春村は本気だったらしい。後で呟いているのを聞かされた。
「あたしなんかよりもっと身近に目を向けろっての!!見る目ないよねホント!坂下くんなんて攻めに見えて絶対受けなのに」
 ……毎日こんなこと聞かされてみろ。
 オレが彼女を疑うのも、無理はないでしょう?
 しまった。話が逸れた。
「で、結局なんだったんだよ。軍司の辞めた本当の理由って」
 春村はまだ不服そうだったが、気を取り直したように、大きく息を吐いてから言った。
「転校だよ。お父さんの仕事の都合とかで」
 なんだ。至って普通の理由だ。
 オレが肩透かしを食わされていると、春村が続けた。
「表向きはね」
「表向き…?」
 春村が淡々と言った。
「クラスでイジメに遭ってたんだって」
「イジメ…」
「そう。まあ実際にお父さんの方にも転勤の話が出てたらしいんだけどね。んで、高校3年間は東京の方行ってて、大学はこっち受けるってきかなくて、ようやく合格したから、この春からこっちに出てくるらしいのね」
「ちょっと待て」
 オレは淀みなく話す春村にストップをかけた。
 春村が、不満げに口を尖らせる。
「何?」


 落ち着け。落ち着いて考えろオレ。何かおかしくないか?おかしいよな。ちょっと冷静になれ。思い出せ。食堂入った時、どうした?食券買ったか?いや、買ってないよな。春村が「今日は私の奢りー」とか言ってたよな。言いましたね。
 オレは自分の目の前にある食いかけの期間限定プリンとしばらく見つめ合った。
 立ち上がった。
 即座に春村がオレのスーツの裾を掴んだ。
「………まだ、食べ終わってないわよ、黒川くん…っ!!」
「離せ、伸びる!!安物だから伸びる!!」
「どこ行くの!?話途中でしょ!?」
「説明会が!今から説明会があるの忘れてたんだよ!!」
「嘘吐け!!説明会帰りでしょ!!鞄の中見たもの!!就職セミナー帰りだもの明らかに!!」
「人の鞄勝手に覗くなよ!!」
「お願い!!一生のお願い!!一ヶ月だけだから!!家決まる一ヶ月だけでいいからさ!!」
「何の話だ!?お前説明下手くそ過ぎるぞ!!教師になるな!!」
 二人して力一杯スーツの端を引っ張り合う姿に、食堂のおばちゃんたちが手を叩いて笑っている。
 いや、そんな面白い空気じゃねんだよこっちは!


「離せっつーの!!」



「お願い!一ヶ月だけ、サトルくん下宿させてあげて!!」
  



 ………マジで…?


 












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「あ、俺なんか聞いたことあるわ、そんな話」
 安いから、という理由で、わざわざオレの働いているスーパーまで買出しに来た先生が、品出しをしているオレの隣で、みりんを手にして呟いた。
 オレは醤油の瓶を棚に並べながら、先生の次の台詞を待った。
 先生がみりんの原材料表示を睨みながら言う。
「昔の女に紹介されんだよ。んで、どうしても下宿させてやってくれって脅された挙句、やってきた当の本人が異常に男前で、天然バカで、なんだかんだ揉めて結局付き合うことになるんだよな」
 先生がみりんを棚に戻した。別のポン酢を手に取る。
「最初はクソ生意気でムカついてムカついて、なんじゃこいつって思うんだけど、一緒に住み出すと情が移るっていうか、案外良いところも見えてきたりして、実は好意を抱いていたということにもなり兼ねない危険性を孕んでいるぞ、その春村の話は」
「ていうかそれ先生の話じゃないですか。何ちょっと人から聞いた話、みたいな言い方したんですか」
 オレが『広告の品』のシールをくっつけると、先生がすかさずその醤油を掴んだ。
「光化学スモッグの注意報みたいなもんだよ。忠告してやってる俺に対してその言い草はなんだ黒川」
 本日の広告の品である醤油の瓶を握ったまま睨まれてもちっとも怖くない。オレはよいしょと立ち上がった。
「でもまあオレの場合、一ヶ月だけだし」
「預かるのか?」
 先生が驚いたようにオレを見つめる。オレは足元の空のダンボールを潰しながら答えた。
「…そいつの新しい下宿先が見つかるまでって約束だから。見つかったらすぐ追い出しますよ」
「…そう簡単に見つかるのかよ。もう3月だぞ。良い物件はもう埋まってんじゃねえの?…というか、久野は納得してるのか?その話」
 痛いところを突かれてオレが押し黙ると、先生が大きく息を吐いた。
「話してないのか?」
「…いや、最近捕まらなくて。お互い忙しくて…」
「一回ちゃんと言っておいた方がいいんじゃないか?――絶対、100パー、確実に!!揉めると思うぞ」
「…とても力強い肯定、ありがとうございます」
「礼には及ばない」
 先生がカゴに醤油を並べて素っ気無く言った。一つ裏の棚から、豆板醤を探し出してきたらしい東郷が顔を覗かせた。
「ありましたよー。こんな辺鄙なところに」
「でかした。後は豆腐だな。絹こしと木綿とどちらが好みだ?黒川」
「木綿」
「木綿だと」
「了解です」
 そう言って東郷が、ささーと豆腐コーナーへと移動してゆく。その後姿を見送って、オレは先生に問うた。
「マーボー豆腐ですか。何故オレに聞くんですか」
 先生が平然と言った。
「お前の家で作るからに決まってるだろう」
「…い、いつの間に…」
 オレが唖然としている間に、東郷がさっさとカゴに豆腐を詰めていた。


 これじゃあ益々引越し準備が遅れるじゃないか。
 てか、みんなオレらの邪魔してないか…?


 ここまで来ると、被害妄想も極致に達する。
 ノゾミとは話し合いもできないし、春村はどんどん話進めるし、先生たちは明らかに面白がってるし…


 結局、軍司怜を預かることは決定した。春村に泣きつかれた。
 オレ達は一週間後に新しい部屋に移ることになっている。大学からちょっと離れるが、そんなに不便でもない場所だし、部屋から川が見えるとノゾミが喜んでいたので、そこに決めた。2LDKで家賃9万ちょい。
 奴が来るのは十日後。ということは、引越しし立てのオレとノゾミの新居に奴が入り込む形となるのだ。新婚生活を味わうことなく、ですよ。ようやく訪れるはずだったノゾミとの蜜月を邪魔され、オレとしても不愉快極まりないのだが、こちらに身寄りのない軍司が頼れるのはオレしかいないと言われれば仕方あるまい。確かに、付属高出身で一人暮らししてる奴のが珍しいもんな。しかもオレの場合、丁度都合よく春から二人暮らし用の部屋に引っ越すわけだし。しかも世間的には友人と住むってことになってるしなあ。まさか恋人とは思われてないもんな。そりゃ向こうにしてみれば、お邪魔しても何ら問題はなかろうって思うよなぁ…。
 
 
 どうしよう…。
 ノゾミに、なんて説明しようか…?











 

テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学


 文学館に一番近いカフェテリアに忍び込み、窓際の端っこに席を取って、俺はニット帽を目深に被り直した。眼鏡のフレームを押さえて周囲を窺う。午前中だからか、席は結構空いていて、友達と甲高い声で談笑している学生やら、一人一生懸命レポートをこなしている学生やら、待ち合わせらしく時間を持て余したかのようにケータイを弄る学生やら、とにかく女子率の高いカフェテリアであった。
 俺は怪しまれないよう、雑誌を読む振りをして、授業の終わる十香を待っていた。すると、願いが通じたのかすぐさま十香が現れた。白いコートに身を包んでいるが、多分下はジャージだ。就活のために黒く染め直したショートカットを揺らして俺の席へ近づく。
「ごめんね、お待たせ!なんか買ってくる。のんちゃん何飲んでるの?」
「ブラック」
「じゃあホットチョコレートにしようっと」
 聞く意味があったのだろうか?カウンターへ向かう十香の背中を睨んでいると、入り口からどんどん女子学生が流れ込んできた。丁度授業が終わるタイミングなのかもしれない。俺は周囲にバレないよう、俯いて雑誌を真剣に読むことにした。雑誌の特集記事は、「カップル調査、別れるタイミングはいつか」となっていた。不吉だ。不吉過ぎる…。俺は慌ててページを繰った。普通のファッション特集のページにしておこう。
 チョコレートの入った紙コップを熱そうに運んで十香が着席した。コートを脱ぎながらさりげなく周囲をチェックしている。あ、やっぱジャージだった。黒いジャージに、下はアイボリーのニットワンピ。
「あ」
 十香が入り口の方を見つめて声を上げた。俺もつられてそちらを見る。丁度、混雑した入り口辺りで、本日のオススメメニューの黒板を見つめている女の子がいた。茶色い巻き毛に薄ピンクのコートを着た小柄な子だった。
 十香が声を潜めた。
「あの子だよ、のんちゃん!噂の深田眞織ちゃん!」
「…あの子…」
 う〜ん、言われてみれば見覚えのあるようなないような…。やっぱ女子って同じに見えるんだよなあ…。昔はそうでもなかったんだけど。みんな髪巻いてピンク着られると、益々区別しにくくなる。
 全国の女子の皆様には申し訳ないが、この子も見た目は女子力全開で、将来は大手銀行等に勤めて25までに今の彼と結婚できたらいいなとか、こういうカフェテリアで友人と話してそうなタイプにしか見えない。
 でもまあ顔は可愛い。好みのタイプだ。唇厚いとこがいいと思う。
 って、そういうこと考えてる場合じゃないのでした。
 我に返って、俺は伊達眼鏡のフレームを押し上げた。その時、ふと彼女のピアスが目に入った。揺れるタイプのピンクの花の形を見て、俺は思い出した。
「あの子…!」
「あ、思い出した!?」
 俺の反応を見て、十香が顔を輝かせた。


 いつの飲み会かははっきり覚えていないけど、席が隣り合った子だ多分。彼女が席を立った時に、巻き毛に例のピアスの花の部分が引っ掛かったので、取ってあげた覚えがある。うん、絶対そう。んで、俺が自分の不器用さをすっかり失念していたお陰で、ピアスから髪を救ってあげた頃には、みんなとっくに次の場所に移動していたというオチがついていたような…。


「やっぱお持ち帰りしちゃってたの!?」
「………」
「のんちゃんっ」
 十香が小声で凄んでくる。
 俺は例の眞織ちゃんを見つめた。腹。妊娠してると言ったな。
「…何ヶ月?」
「え?」
 俺の低い声に、十香が眉を寄せた。俺は重ねて問うた。
「あの子、何ヶ月なんだよ?」
「多分、4ヶ月って聞いたけど…」
 コートの所為か、お腹の膨らみまでは分からなかった。
 4ヶ月前といえば、丁度10月くらいか。
「のんちゃんと黒川くんが付き合いだしたのって…」
「…10月だ」
「…のんちゃん、最後にコンパ行ったの、いつ?」
 俺が無言でいると、十香が無言で俺のブラックコーヒーの中に、自分のホットチョコレートを混ぜ入れようとしていたので、慌ててやめさせた。
「こら!何をする!?」
「正直に答えなさい!この女の敵め!!」
「ちょっと待て、はるるんどっちの味方!?」
「黒川くんの味方だよ!!」
 十香の即答に、俺は目を見開いて、彼女を見つめた。今まで見たことのない、真剣な十香の表情に俺は何も言えなくなった。十香の目を見れば分かる。明らかに、俺を疑ってる目だ。
 十香が自分を落ち着かせるように大きく息を吐いて背もたれに寄りかかった。
「…あたし知ってるもん。聞いてるもん。のんちゃん、あの猫ちゃんの事件の後も、黒川くんとちゃんと付き合うまで飲み会参加してたんでしょ?ミッシーたちから聞いてるもん。勿論、黒川くんには言ってないけど」
「なんで…」
「聞きたいのはこっちだよ。なんで?黒川くんのことその時はまだ意識してなかったの?チューはしてたのに?」
 こけそうになった。
 周りの学生たちが、椅子から半分ずり落ちた俺を訝しげに見遣る。俺は震えながら十香に尋ねた。
「…ちょっと待て。…どこまで知ってんの?つーか、なんで知ってんの!?」
「あたしの質問が先でしょ!?」
 珍しく十香が本気でキレている。彼女がクロの味方だというのは百も承知だ。でも、だからって、なんでそこまで知ってんだよ。なんでそこまで詮索する?そんな情報、俺から漏れたんじゃなければ、クロから発信以外考えられない。つーかなに、クロの奴、十香にそんなことまで喋ってるのか?いくら仲良いったって、そこまで言う? 
 十香が完全に俺のことを悪者扱いしているのと、クロ十香間の情報網の厚さに、俺は正直打ちのめされた。野球部連中から聞いているという情報も同じく。
 つか、やっぱそうなんだ。大学入った頃から急速に仲良くなったって、高校1年からの付き合いの奴らに、俺が入り込む余地なんて全然なくって、所詮新参者の俺なんかは部外者って訳だ。
 俺には、いざとなったら、庇ってくれる奴なんて、いないのか。
 十香はそうじゃないかなって、ちょっとは期待してたんだけどな。




「わかった」
 俺の低い声に、十香が眉を寄せた。
 俺は席を立った。


「自分でちゃんと責任取るから。もう俺のことは放っておいて」












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 かっこいいというよりは可愛らしいという感じだな。


 それが軍司怜の第一印象だった。
 オレが3年の時に入部してきた1年は全部で7人。その中で軍司は飛びぬけて小柄で飛びぬけて可愛らしい容貌をしていた。聞けば中学3年間野球部に在籍していたのにも関わらず、万年補欠だったらしい。ポジションはセカンド。守備はまあまあ、打率もそこそこ。が、一番の問題点がすぐに発覚。春村が新入部員それぞれの体力測定の結果を見て言った。
「軍司くんは体力と持久力がない」
 本人は努力しているようだが、やはり他の新入部員と比べても体が小さい所為か、見劣りした。
 ちなみにオレは身長と体力には恵まれていたが、いかんせん足が遅く、打率も良くはなかった。身長のお陰で、入部した当時は周囲にもてはやされたものだが、使えないと分かるとすぐに切られた。それが悔しくて、自主練習を増やしてどんな難しい球でも捕れるよう努力した。そのお陰か、肩が異常に強いことが判明して外野で使ってもらえることとなったのだ。
 オレ自身もそんな悔しい思いを重ねたので、軍司には頑張って欲しいと密かに思っていた。そして実際、軍司が部活終了後も一人で練習している姿を見かけてしまい、何となく自分に重ねて見てしまったりして、オレは奴を気に掛けるようになった。たまに自主練習に付き合ってやったり、使い古しのグローブをやったりとかして。そしたら軍司の方も、初めはオレの外見にびびっていたようだが、段々見慣れてきたらしく、徐々に懐いてきたのだった。
 てなことがあって、後輩がオレに懐くという現象を珍しがって周囲の連中がからかってきたりした。オレは鬱陶しくも受け流していたのだが、軍司の方はそうもいかなかったようで、結局2ヶ月程で退部してしまった。
 と、オレは思い込んでいた。


 実際、軍司は中学の時からイジメに遭っていたらしい。小柄な所為で周りにからかわれ、高校に入学してもそれは変わらず、更に野球部に入ってそこでも先輩と妙な噂を流され苦しんでいたようだ。てかその先輩ってオレなんですけどね。
 てことは、その原因の一端をオレも担っちゃってませんか?
 という訳で、多少オレにも罪悪感たるものがあって、現在進行形で進められつつあるこの下宿の話もOKせざるを得なかった…ということをご理解いただきたい。






 オレは、真正面に座って優雅にコーヒーを飲む美少年をちらりと見た。
 周囲の視線が痛い。視線の8割は彼、軍司怜に注がれているのだが、残りは全部こちらに降り注がれている。しかもどちらかっつーと、羨望とか尊敬とかとは縁遠い嫉妬とか敵意な感じの視線オンリー。なんであんたみたいのと彼がお茶してるの的なのがほとんど。更に視線の8割は女性だが、中には男性も混じっていたりする。
 助けて。マジで。どんだけ目立つんだよこの子は。どっかの芸能人か。イジメってアレだろ。どっちかっつーとほぼ嫉妬だろ。こんだけキラキラオーラ纏った奴が苛められてたなんて信用できるか。
 東郷もかなりの美少年だが、奴の場合は時々見え隠れする毒がたまに排出されたりするので、外見は完璧だけど中身が残念な美少年と言える。だが、軍司の場合は違った。多分こいつは外も中も完璧に近い。いや、毒を隠し持ってるかもしれないけど、それを微塵も感じさせないのだ。だって東郷はうっすら滲み出てるし。爽やかだけど笑顔怖いし。軍司にはそれが見えない。店に入って着席する時、オーダーする時、コーヒー飲む時、全ての仕草が優美というか上品っつーか、オレの周りにいないタイプ。
 いや、この子きっとアレだ。
 セレブ。


 高校を卒業した軍司は、言う程小柄でもなかった。しかし顔は昔と変わらず可愛らしかった。癒し系というか、見ててほんわかする顔立ち。万人受けしそうな顔なのにな。
 オレがじっと見ているのに気づいた軍司が、にこっと笑ってカップを置いた。
「すみません、黒川先輩。お忙しい時に」
「いや」
 美少年は声も素敵に出来ているらしい。オレは感心した。
「僕、こっちの大学何校か受けたんですけど、結局受かったのは桜飛大だけだったんです。親にも今年で受からなきゃ諦めろって言われてたし。それで、学校決まってから家決めようと思ってたらこの辺りって結構人気なんですよね。いつの間にか大学周り全部埋まってて、どうしようって思ってたら姉が春村さんに連絡取ってくれて…」
「お姉さんは…」
「東京の大学に行ってます。春村さんとはメールで交流続いてたらしいんです。そこで春村さんが、黒川先輩が一人暮らししてるって教えてくれて…」
 そう。春村は刺客だったのだ。詳しくは聞かなかったが、どうやら軍司姉に何やら弱みを握られているようだった。
 何がオレを追っかけて、だ。よく言ったもんだ。単に野球部連中で一人暮らししてたのがオレだけだったって話じゃないか。紛らわしい。
「でも先輩、丁度春から引越しされるんですね。二人暮らし用の部屋だとか。もしかして僕お邪魔じゃないですか?彼女さんと住む予定とかだったんじゃあ…」
 その通りです。その通りですよ軍司さん。いや、彼女っつったら蹴られるけどな。確実に。




 昨日、珍しくノゾミから電話があった。丁度良かった。軍司の下宿のことを話そうと思った。そうしたら意外な言葉が返ってきた。
「悪いけど、新しい部屋に引っ越すの、俺2週間くらい遅らせてもらっていい?」
「え、あ…いいけど…なんで?」
 思ってもみなかった申し出に、オレは何となくほっとした。
「…ちょっと、色々忙しくってさ。落ち着いたら、引っ越す前にまた連絡するから。ごめん」
 ノゾミはオレより忙しいはずだ。補講と就活とバイトと卒論。あ、卒論!オレもだよ!テーマ早く出せってつつかれてたんだった。
 軍司の下宿の話は結局言えなかった。ノゾミも忙しそうだったし、オレも卒論のテーマ考えなきゃだったし、何より2週間の猶予が出来たことで、その間に軍司にさっさと家を決めてもらって出て行ってもらえば、ノゾミとかち合うことはないんじゃないかという、オレにとっては一番楽でありがたいパターンを思いついてしまったからであった。



 という訳で、オレはノゾミより先に、軍司と新居に移る運びを選んだのだった。














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「恋愛って病気なんですって」


「へぇ…」


「恋煩いって言うでしょ?なんか精神病の一種と症状が似てるんだとか」


「ほう」


「そんでもって恋愛中って、脳内に色んな物質が分泌されるらしいんですよ」


「ふーん」


「ほらよくパニック映画とかで巻き込まれた男女が最終的にくっついたりするじゃないですか。修学旅行での肝試し後にくっつくカップルとかいるでしょ?あれって、普段味わえないようなスリルを共に味わうことで、その時に分泌される脳内麻薬で恋愛感情と勘違いしちゃうんですって」


「そうなのか」


「そうなんですよ」


「で?」


「『で?』とは?」


「…このテストの成績と今の話、何が関係あるんだ?」


「…その…だから……」


「はっきり言ってみろ。一体どうやったら、全教科45点以下が取れるんだ?」


「…だから…病気だったので…勉強できなかっ……」


「人に伸し掛かる前に教科書丸暗記しろっ!!ボケーーー!!!!」








<終>
















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「どう責任取るつもりなんですか」
 俺の目の前に座った彼女は、美しくアイラインの引かれた瞳を真っ直ぐ俺に向けて言った。
「どうって言われても…」
 俺が溜息を吐くと、彼女はウェイトレスが置いていったコーヒーカップに口をつけてから、淡々と言った。
「別れてください、彼女と」
「それは無理」
 だって彼女じゃないもん。
 俺が首を振って間髪入れずに即答すると、彼女は音を立てずにカップをソーサーの上に戻した。
「じゃあ堕ろせと仰るんですか?」
「いや、それ以前に、俺たち間違いを起こしましたか?」
 俺がなるべく丁寧に尋ねると、彼女は小さいバッグの中を漁ってから、机の上に母子手帳をそっと置いた。
 クラシックの流れる落ち着いた雰囲気の喫茶店には明らかにミスマッチな代物を登場させられて、俺は激しく動揺してしまった。思わずそいつを凝視する。が、周囲の視線に気づいたのか、そそくさと彼女がそれを鞄内に戻す。
「4ヶ月前のこと、忘れてしまったんですか?」
「…見島たちのお食事会だろ」
 十香が言ってた件のことだ。



 4ヶ月前、野球部連中の一人である見島に誘われた。
「久野くん、今度の土曜日の夜はお暇かね?」
「バイト」
「食事会を催すのだが、一つ参加してみないかね」
「いい。面倒臭い。俺もうパス。そういうの行かないから。つーか何?その話し方腹立つな」
 俺がつっけんどんに返すと、見島が噛みついてきた。
「てめえ!お前はいいよな!彼女がいるからって!モテまくって取替え引替えですか!?モテるメンズは敵じゃ!!男の敵!!」
「残念ながらモテた記憶も取替え引替えした記憶も、一度もない。裾引っ張るな、伸びる」
「とぼけたって無駄だ!お前の黄金時代の噂は聞いてるんだよ!!というわけで、モテない我らにチャンスを与えたまえ!!」
 そのまま見島が土下座する勢いだったので、俺は慌てて止めた。周囲の視線が絶対零度に等しくなってきたからだ。
「な、なんだよチャンスって?」
「お前女友達多いだろ?俺は男を寄せ集めるから、君には女子をセレクトしてきて欲しいの」
「やだよ。お食事会って、結局合コンじゃん。何ちょっと素敵っぽく言い換えてんだよ」
「コンパっつったら聞こえが悪いだろ。食事会って言ったらなんかセレブっぽいし、女子も集まりそうだし、君の彼女にも疑われずに済むと言う俺の配慮だよ久野くん」
 彼女じゃねえよというツッコミはもう飽きたのでスルーしておいた。見島が更に俺に縋ってきた。
「頼むよぅ。もうお前しかいねえんだよ。あと全滅なんだよ。春村に頼んだらあいつぶっ壊すしさ。男同士でやれっとか意味不明なこと言いやがるしさ」
 俺は少し見島に同情した。というか十香にコンパ頼むなんて、なんて勇敢な奴だ。
 余りにも不憫だったので、俺は渋々OKした。
「わかったよ。でも俺は参加しないから。人集めるだけだからな」
「久野様…!!!」
 見島のキラキラした目線を受け流して、俺はゼミの女子やらバイト先の女子に食事会への参加を募った。声を掛けた子に、更に友人も連れてきてもらうという鼠算的作戦を実行したところ、7人くらい集まった。そうすると、今度は男子が足りないと見島に泣きつかれ、渋々俺も参加することとなった。
 で、その時に来てたのが、眞織ちゃんというわけ。


「確かに席は隣り合ったけど、髪に引っかかったピアスを取っただけで特に何も…」
 俺が大きく息を吐いて深く背もたれに凭れ込むと、彼女はぴらりと一枚の紙を取り出した。写真らしい。
「これをどう説明なさるんですか」
 彼女が示した写真を手に取る。
 俺は口を開けて固まった。
 ホテルの出入り口から出てくる俺と眞織ちゃんが写っている。
「…は?なにこれ?どういうこと?」
 合成?にしてはよく出来ている。どこで撮ったんだこんなもん。
 俺が写真とにらめっこしていると、彼女が無感情な声で言った。
「それを恋人にばらされたくなければ」
 濃いマスカラたっぷりの睫毛に影が降りる。彼女は一度目を伏せてから、すぐに俺の方を見据えた。


「今すぐ、別れてください」











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 俺は十香と別れた後、すぐに英文科の教室に向かった。女子率の高い教室の前でうろうろしていると、何やらひそひそと囁かれてはそそくさと立ち去って行く女子学生らの厳しい洗礼を受けた。しかしそれに怯むことなく、俺は眞織ちゃんの姿を捜した。

 何としても彼女の真意を確かめたかったからだ。

 断言しても良いが、俺は彼女と過ちを犯してはいない。
 十香が見島からどういう風に聞いたのかは分からないけれども、ポメラニアン事件後、俺はぱたりと合コンに参加しなくなった。遊び好きの俺が参加しないことに関して、どうも周囲には奇異に映ったらしい。見島たちは彼女ができたに違いないと勘違いしてくれていたので、そいつを俺は黙認する方法を取った。そうすることで、周囲からのお誘いが激減した。作戦成功だと思っていたのに。この仕打ちである。
 あの1回。見島たちの涙のお食事会に、同情して参加してしまった為に、俺は酷い疑いをかけられた。
 大体今までだって、お持ち帰りだ何だと言われてきたけど、マジで何もなかったからね?眞織ちゃんの時のように、俺が鈍臭い所為で、女の子と二人きりで置いていかれて、仕方なく送る破目になったって事態ばっかなんですよ?周りは誤解しまくってくれてるみたいだけど…

 つか、己の外見が今回ほど憎いと思ったことはない。
 なにこの俺に対する、遊び人&女好き疑惑。明らかに周囲の女子、俺を汚いものでも見るかのような視線なんですけどっ。
 俺が今現在、めちゃくちゃ純粋であるということを彼女らに伝えられないのが歯痒かった。
 大体俺二十歳超えてからはクロとしかやってねえっつーの!!妊娠なんてさせたくてもできねえだろーがっ!!
 脳内カミングアウトを済ませ、周囲の極寒視線を苛立ちながら撥ね退けていると、背後から声を掛けられた。


「久野希、さん?」
 フルネームで呼ばれ、俺は振り返った。そこには小柄な女の子がこちらを真っ直ぐ見上げていた。黒いハーフコートに濃い色のデニム。肩から提げた白いバッグには教科書が詰まっているらしく、重そうだった。セミロングの黒髪に、濃いマスカラを乗せた瞳は勝気そうな印象を与える。眞織ちゃんとは対極に位置する女の子に思えた。なんというか、男を毛嫌いしてる感じ。いや、男じゃないな。「俺を」だ。
「そうだけど…君は…」
「あたし、皆本若葉」
 彼女は簡単に自己紹介すると、俺を睨みつけて言った。
「眞織の件で話があるんですけど。時間いいですか?」


 眞織ちゃんの友人だという彼女、若葉ちゃんの説明によると、眞織ちゃんは自分が妊娠している事態に非常に動揺していて、俺と話せるような精神状態ではないと言う。だから代わりに自分が眞織ちゃんの真意を告げに来たというのだ。
 聞こえるか聞こえないか程度の心地よいクラシックが響く店内で、俺は彼女と対峙していた。
「眞織は、あなたが彼女と別れることを望んでいます」
「…子どもはどうするの?」
「産む気でいます」
「眞織ちゃんの彼氏は?なんて言ってるんだよ?」
 俺の質問に、ぴくりと若葉ちゃんの肩が揺れた。射るような鋭い視線を俺に向ける。思わず怯んでしまった。この子、目ヂカラきつ過ぎるよ…
「彼女に彼氏はいません」
 きっぱり綺麗に否定した若葉ちゃんは、バッグを漁って財布を取り出した。千円札をテーブルにそっと置く。なんとも仕草は上品な子だ。音を立てずに席を立った。
「子どもは一人で育てると言っています。あなたには、恋人と別れて認知さえしてもらえればいいと言っています」
「…さっきの写真貰えない?記念に」
 若葉ちゃんは表情を変えずに、バッグから写真を取り出して机に置いた。が、俺が覗き込むと、すぐに取り上げてしまった。
「ああ、ちょっと…」
「すぐに処分させてもらいます。こんなもの、残してたら眞織が傷つくだけですから」
「本人と話したいんだけど」
「無理です」
 にべも無い返事に、俺は大きく息を吐いた。若葉ちゃんが俺に背を向けた。
「もう二度と、彼女に近づかないでください」
 それを捨て台詞に、彼女はさっさと潔く去って行ってしまった。



 店内に残された俺は、気持ちよいソファの背もたれの感触を思う存分味わいながら考え込んだ。

 なんか引っかかる。

 なんで本人が俺の前に出てこないんだろう。
 俺が父親じゃないって突っ込まれることが分かりきってるからか?んじゃなんでそんな根も葉もない噂を流す必要があるんだ?俺あの子に何かした?
 ろくでもない噂流されて、明らかに俺は名誉毀損だよな。しかも友達使って、「恋人と別れろ」ってどういうこと?新手のアプローチ…じゃねえよな?だとしたら斬新過ぎるし。
 子どもは一人で育てる。認知さえしてもらえればいい。ただし恋人とは別れろ。
 ってことから考えると、やっぱり眞織ちゃんの一番の目的は、俺を貶めることだろう。噂を撒き散らしてることから考えても、俺に対する周囲の評価を下げまくるって作戦だろうな。実際、十香からは軽蔑されてしまってるわけだし。彼女の作戦は成功しているわけだ。
 写真にしたってそうだ。俺にちゃんと見せてくれなかった。よくよく見たら、嘘だってバレるからだろう。あの写真、多分イブに俺が白猫のブリちゃんの息子探しに奔走してた時のやつだ。クロと美遊ちゃんを追って、ホテル街を探索してた時の。だってコート来てたし。俺と眞織ちゃんが会ったのは10月初め。あんなコートまだ着てなかった季節だ。多分、イブの日にたまたま俺を見つけて写して、写真を合成したんだろう。
 が、なんでそんなバレるような嘘吐くんだ?そこまでする彼女のメリットってなに?ただ単に溜飲下げるだけにしては、凝りすぎてる気もするしなぁ…

 ふと、若葉ちゃんの置いていった千円札が目に入った。
 俺を明らかに敵視していた彼女の瞳を思い出す。女子からあんな敵意むき出しの視線を浴びたのは、十香に続いて二人目だ。
 友人まで取り込むなんて、俺相当恨まれてるな。
 俺は机の上の千円札を手に取った。 
 一体俺眞織ちゃんに何を―――



「あ」


 
 俺は背もたれから体を起こした。
 千円札をじっと見つめる。



「分かった…」



 謎が解けた。












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 これは少し時間がかかるかもしれないと踏んだ俺は、とりあえず引越しを先延ばしにしてもらうことにした。
 きちんと、眞織ちゃんの件を片付けてから、クロとの新生活を送りたいというのもあったし、女のことでぐちゃぐちゃ揉めてるのをクロに知られて面倒な事態になることも避けたかったし、何より十香のように、クロにだけは軽蔑されたくなかった。
 んでよくよく考えたら今の俺にとって、卒業が危ういことより、卒論のテーマが未だ決まってないことより、就職の目処が一向に立たないことより何より、クロに嫌われることが一番怖いんだなと思った。クロに軽蔑されたら何かもう一生立ち直れない気がする。だからできれば、眞織ちゃんの話は勿論、妊娠云々の話はクロの耳に入って欲しくなかった。
 …まあ十香がクロに言ってる可能性も高いけど…。でも、きちんと解決しておけば、後で説明してちゃんと分かってもらえるはずだ、うん。クロがそんなに心の狭い男でないことは、俺が一番知ってるし。
 とりあえずややこしい話はさっさと片付けて引越ししたいってのが本音だった。

 ちなみによくよく考えたら、俺クロと二ヶ月近く会ってない。電話やメールはしてるけど、最後に会ったのはきっと、1月に大学の廊下で擦れ違った時だ多分。しかもろくに話さず別れたし。クロはスーツ着てたから、順調に就活しているらしい。見かけに寄らず真面目な奴だ。いや、俺が不真面目なのか。
 それにしても改めて思うけど、クロってすごくいい物件だと思う。今まで女子の買い手がつかなかったのが不思議なくらい。真面目だし背高いし見た目怖いけど良い奴だし。周りに見る目ない奴が多かったんだなきっと。
 まあ今は俺のだけどね。くれっつってもやらないけどね。

 …ってそんな恥かしいこと考えてる場合じゃなかった。
 今から俺の孤独な戦いが始まるのだ。
 下っ腹に力を入れて、俺は一人、女子の冷たい視線を浴びながら文学館へと侵入した。








「皆本若葉さーん」
 俺の声に、黒いセミロングが揺れた。相変わらずきつそうな瞳が俺を見上げる。図書館の地下の隅の机で、英語の教材を広げていた彼女は、俺が正面に座ったのを見て思い切り眉根を寄せた。
「…なんですか」
「お勉強中申し訳ないんだけど、お時間、いい?」
「なんですか?」
「ここじゃあちょっと」
 周囲の机から、かりかりとペンを走らせる音とページを繰る音が聞こえてくる。静かな空間で響くのは俺と若葉ちゃんの低い声のみ。
「他の人に聞かれるし」
「あたしは構いませんけど」
 きっぱり言い切って、再び目を教科書に戻す彼女を見て、俺は声を潜めた。
「…君と眞織ちゃんの話でも?」
 その俺の一言に、若葉ちゃんは英文の並ぶ辞書を閉じた。



 対決の場に選んだのは、以前と同じ、クラシックが静かに流れる上品な喫茶店。この店は大学から少し距離があるので、桜飛大生はほとんど立ち寄らない。
 注文を終え、店員がコーヒーを2つ運び終えたのを見計らって、俺はメッセンジャーバッグから一枚の写真を取り出して机に置いた。若葉ちゃんが訝しげに覗き込んで目を瞠る。
 震える手でその写真を掴んで、自分の目の高さまで持ち上げた。
「これ…」
「偶然、知り合いが撮ったんだけど」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
 その写真は、眞織ちゃんが男性と並んでホテルから出てくる写真だった。
「俺が聞きたいよ。どういうこと?眞織ちゃん、他に男いるんじゃねえの?父親、俺とは限らないんじゃないの?」
 俺の質問も耳に入っていない様子で、若葉ちゃんは顔色を変えて食い入るように写真を見つめている。俺は大きく息を吐いて、机を叩いた。
「皆本さん?」
 返事なし。駄目だ。聞こえてない。
「若葉ちゃん?」
 呼びかけると同時に写真を奪う。その時、丁度彼女の右手に触れてしまった。すると、突然、彼女が派手なリアクションで右手を自分の膝へと戻した。その様子に、思わず謝ってしまった。
「あ、ごめん」
「写真、見せてください」
「今見たろ」
「ちゃんと見せて。合成でしょ?」
「なんでそう思うの?」
「だって眞織は…」
 若葉ちゃんが言い淀んだ。俺は彼女の続きの言葉を待ってみたが、やはり続きそうになかったので、写真を机の上に再び置いた。若葉ちゃんが顔を歪めて覗き込む。
 俺はその写真の中の、男性の方を指差した。
「こいつ。経済学部4年の見島。俺の友達」
 俺の説明に、若葉ちゃんが顔を上げた。
「見島…くん…」
「今バイト先の年上の女性に夢中。こないだようやくデートに漕ぎ付けたらしい」
「……は?」
 若葉ちゃんが大きく口を開いてこちらを見つめる。間抜けな表情に、初めて可愛いと思った。
「…どういうこと?」
「協力してもらったんだよ。元はと言えばあいつの所為でもあるわけだし」
 若葉ちゃんが益々眉根を寄せる。
 俺は決心した。他人に自ら話すのって、相当勇気がいることなんだなと思った。
「俺付き合ってる奴がいる」
「…知ってるわ」
「相手男なんだけど」
 俺の思い切った告白に、若葉ちゃんが言葉を失った。構わず続ける。
「んで、今度春から一緒に暮らすんだけど、はっきり言って迷惑なんだよ。こんな噂流されると」
「嘘…」
「…嘘じゃねえよ」
「だってしょっちゅう合コン参加してるって眞織が…」
「それ1年とか2年の話だろ」
「違うわ。10月くらいに一度…」
「あれは誘われて無理やり参加したんだよ。眞織ちゃんもそうだったんだろ?」
 俺の指摘に、若葉ちゃんが黙り込んだ。俺はここで畳み掛けねばと思い、身を乗り出して続けた。
「この間この店で、俺が眞織ちゃんの彼氏のこと聞いた時、君は『彼女に彼氏はいません』って言い方したよな?それが妙に引っかかって、なんでだろって考えたら、俺もその手よく使うんだってことに気づいた。他人から『彼女いるの?』って聞かれたときに、『彼女はいません』って答えるんだよ。それって、彼女はいないけど恋人はいるよってニュアンスも含んでるつもりなんだけど、他の人は大抵それで納得してくれるじゃん。彼女いないのかーって。でもまさか男の恋人がいるのかとまでは深読みするわけでもないしさ。
 だから、前の君の解答は同性の恋人がいる俺からすれば割と簡単に想像できる答えだったんだよな」
 俺が話し終えると、若葉ちゃんは伸ばしていた背筋を崩した。そして深く腰掛け直して大きく息を吐いた。
「…そっか…男の恋人だったのね。それじゃあ、彼女と別れるのは無理だよね…」
「…なんで俺を別れさせたがったの?」
 俺の質問に、若葉ちゃんが自嘲気味に笑った。
「別に。ただ単にあなたの株を落としたかっただけ。眞織が男性を意識して『かっこいい』って言ったのはあなたが初めてだったから」
「光栄なような迷惑なような…」
「だって悔しかったんだもん。あたしが隣にいるのに、他の男の話ばっかして。しかも相手は遊び人だって噂だし。だったらいっそのこと、妊娠説でも流して眞織もあなたも貶めてやろうと思って…」
「すんっっごい、迷惑なんですけど」
 俺が感情を込めて伝えると、若葉ちゃんが深く頭を下げた。
「…ごめんなさい…」
「じゃあこの件、眞織ちゃんはマジでノータッチだったんだ」
 若葉ちゃんが頷く。
「なんで妊娠説が流れてるのか戸惑ってるわ。そりゃそうよね、内緒にしてるけど、本人男駄目なんだから。ちなみにその写真はどうしたの?」
「君と同じ手法使った。眞織ちゃんのゼミの子に憎まれ目線を受けながらなんとか眞織ちゃん本人の写真ゲットして、見島をホテル街に立たせて写真撮って合成した」
「…手、込んでるわね」
「そっちもな。つか、ちゃんと謝りなよ眞織ちゃんに」
「うん。ちゃんと言っておく。久野くんは男好きだったって」
「やめろ!また新たな誤解が生まれるから!!」
 俺が必死になって止めると、若葉ちゃんが初めて声を立てて笑った。
「嘘、冗談。絶対誰にも言わない」
 若葉ちゃんがもう一度頭を下げた。
「…ごめんね。ちゃんと、周りには噂は嘘だったって説明するから」
「眞織ちゃんと仲直りしたら教えて」
「うん」
 俺の言葉に若葉ちゃんは素直に頷いた。
 一度素直になると、とことん良い子らしい。別れる間際まで俺に謝罪し続けてくれた。



 とりあえず、一件落着かな。
 疲れた。というか噂って怖い。しばらく大人しくしていよう。いや、3年から大人しくしてたつもりなんだけどな。なんなんだろうこの長期な威力。早く消えてくれないかな。久野希遊び人疑惑。でないとまたいつどこで変な噂流れるか分かったもんじゃない。寧ろ一番嫌なのはクロに伝わった時だ。多分、本気にはしないだろうけど、その噂を聞いてクロが傷つくのは嫌だな。
 …ということは、やっぱもう行動で示すしかねえよな。


 よし、さっさと新居に移ろう。クロも先に一人であの広い部屋を独り占めしてるわけだし。
 つーかもう二ヶ月も会ってないし。とりあえず会いに行こう。クロがいなけりゃ帰ってくるまで待ってたらいいんだし。んで、その後落ち着いてから本気で荷物運び込めばいいや。


 そう決心した俺は、その足でクロとの新居へ向かったのだが。


 災厄と最悪は、まだ続いていた。












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