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 男が、俺の手首をシーツに押し付けて見下ろす。
 痛い。手首の感覚がない。少年の握力とは比べ物にならない。
 慌てて足をばたつかせると、唐突に首を舐められた。
「ぎゃーーーーーー!!!!」
 衝撃的すぎて、生まれて初めてかっこ悪い悲鳴を上げると、その男が不機嫌そうに顔を上げた。
「うるさいガキだな。初めてなのか」
 初めてってなに!?なにこの人、誰!?俺の知り合いじゃないだろ明らかにっ!!
「退け!初対面の人間に跨るなんて失礼にも程があるぞ!まず名を名乗れ!」
「サイハ」
「知らん!!!!」
「初対面だからな。初めての奴って面倒だから嫌いなんだよな。まあいいや、なんかお前面白そうだし」
「意味がわからん…っ!」
 きゃーーっと身を捩ると、片手で顎を掴まれた。がっちりと、目が合う。綺麗な灰色の瞳。戸惑う俺の表情が映り込む。焦点が合わなくなるほど、その目が近づいた。

「!!」

 唇を重ねられた。柔らかい感触。啄ばむように、何度か唇を押し付けられた。

 お、俺男なのに…!一応王子なのに…っ!!

「や、やめろっ!!」
 慌てて体を押し返すと、今度は顎を押さえ込まれて生温かい舌を押し込まれた。舌と、歯茎の裏を舐められる。
「んんっ……!!」
「…口付けも初めてなのか。珍しいな、今時」
 口を離され、からかうような口調に、かっと全身に熱が纏う。
 サイハが低く笑って俺の喉に舌を這わせた。
「貴重だな。ゆっくり貰うか」
「やめろ…ってば!」
 なんとか引き剥がそうと、サイハの制服のシャツを引っ張る。が、びくともしない。くそ、重い。
 なんなんだ。なんだこいつ。初対面の相手に口付けするなんて、頭がどこかおかしいんじゃないか!?
 じたばたともがいていた時だった。
 
 扉が開いた。
「おい、馬鹿王子!なんで鍵掛けておかない……」
 現れた少年が、眉を寄せて、ベッドの上の俺たちの様子を見て固まった。
 サイハが顔を上げて少年の方に目をやった。
「ナナゼロニ」
 サイハの呪文のような言葉に、俺は眉を寄せた。そして、そう呼ばれた少年がそれ以上無理だろうというくらいに眉根を寄せた。
「………何してんだ、てめえ」
「今日の相手、この子でしょ?」
「違うよ馬鹿!!馬鹿が二人もいんのかこの部屋は!?退け!!とっとと退け!!いつまでも乗っかってんじゃねえ!!」
「あれ、焼きもち?」
「死ね!!今すぐ死ね!!いや、殺してやるっ」
 初めて見た少年の荒れた姿に、俺はきょとんとして体を起こした。
「君の知り合い?」
「いや、客……いって!」
 サイハが即答すると、少年が彼の頭をはたいた。
「客?」
 俺の質問に答える前に、少年がサイハの背を押した。
「とっとと帰れ」
「冷たいな。せっかく休憩時間見つけて来てやったのに」
「楽しんだんだろ」
「まだチュウしかしてない」
「死んどけ」
 少年が睨みつけると、サイハがにやりと人懐こい笑みを浮かべて、少年の右手を取った。べろりと手の甲を舐める。
 うわっ。
 瞬時に繰り出された少年の拳を避けて、あっはっはとサイハが笑い声を上げた。
「その子初めてみたいだから、優しくしてあげるんだぞ」
「54回死ねーーーー!!」

 サイハが出て行くと、まるで嵐が去ったかのように、部屋の中がしんとした。少年の興奮したような荒い息だけが響く。そして自分自身を落ち着かせるように、傍の椅子に荒々しく腰掛けた。
「鍵」
「は?」
 単語で言われても分からない。俺がきょとんとすると、彼が苛々したように続けた。
「部屋の鍵!掛けてなかったのか?」
「いや、掛けてたけど。君が帰ってきたのかと思って開けたらあの人がいきなり入ってきて…」
 はあ〜と大袈裟に溜息を吐いて、少年が机に突っ伏した。
「…今度から、絶対に相手確認してから扉開けろ。分かったか」
「……はい」
 物凄く機嫌の悪い彼に、尋ねるのは気が引けたが、今聞いておかなければならない気がしたので俺は質問した。
「…ルコットは…?」
 俺の短い問いに、彼の細い肩が揺れた。顔を起こして、ベッドの端に座る俺を見つめる。静かに口を開く。
「……いなかった」
 簡潔な一言。それだけで、分かった。ルコットは、もう…
「いなかった。誰も。遺体も、見つからなかった」
「え?」
 俺が顔を上げると、彼が淡々と続けた。
「焼け跡に遺体がなかったんだ。だから城は大騒ぎだ。あんたとルコットが逃げ出したってことになってる。きっとすぐに連れ戻すか、追っ手が来る。早く別の町に移動しないと」
「…ルコットは、逃げ出したのか?」
「…遺体がなかったんだ。きっと、どこかで生き延びている」
 生き延びている。
 そうか。
 じゃあ、きっとまた会えるのか。
「良かった…」
「良くねえよ。面倒くさいことになってんだよ」
「ありがとう、確かめてきてくれて」
 素直に礼を述べると、少年がなんだか全身痒そうな複雑な表情を浮かべた。頭を掻いて立ち上がる。
「別にっ。ついでだったし。メシもらってくる。鍵開けるなよ」


 人と向かい合って食事をする、という体験を生まれて初めてした。が、どうしてよいのかわからず、静かなまま食事が始まった。
 正面に座る彼は、食べるのが物凄く早かった。俺がパンをひとつ食べている間に、サラダとスープとパンを食べきった。
「…早いな」
「遅いな。別にいいけど」
 食べ終わった後も汚い。パンくずが散らばってるし、サラダの野菜の欠片が床に落ちている。
 それらを見下ろして俺は尋ねた。
「…聞いていいか?」
「嫌」
「サイハと知り合い?『ナナゼロニ』ってなに?客って?」
「…人の言うこと聞けよ、王子様」
 残った野菜の欠片をフォークで突きながら、頬杖をついて彼が面倒そうに息を吐く。
「顔見知り。あだ名みたいなもん。最後のは黙秘権行使」
 一息で全ての質問に答えて、彼が席を立った。
「先シャワー借りるぞ」
「俺も『ナナゼロニ』って呼んでいいのか?」
 慌てて彼の背中に声を掛けると、ゆっくり振り返った。にっこりと笑顔を浮かべる。
「駄目。源氏名だもん」
「源…?」
 俺が首を傾けると、彼が笑って俺の隣に立った。
「そんなに名前って必要?」
「必要だよ」
「じゃ、あんたがつけてくれ。それでいいよ」
「いや、でも…」
 そんな軽いノリでつけてもいいのだろうか。だって、本来なら親がつけるもんじゃないのか。そうだ。この子の親は、どうしてるんだろう?
「君の、ご両親は…」
「いないよ。つか生きてるのか死んでるのかも分からないから考えなくていいよ。あんたの好きなのつけろよ。なんでもいいから。ポチでもたまでも」
「いないって…」
「んじゃポチにしようか」
 彼がぽんと手を打つ。ポチポチと呟いて去ろうとする彼の服の裾を掴んで引き止めた。
「ちょ、待って」
「なんだよ」
 不機嫌そうな表情に、思わず怯む。眉を寄せたまま、少年が言った。
「どうでもいいんだよ名前なんて。オレがオレであることさえ分かれば、なんて呼ばれようと一緒なんだよ。あんたが決めたいんなら勝手につければいい」
「ポチは嫌だ」
「なんでもいいっつのに」
「エルノアス」
「…なに?」
「エルノアスでいいか?」
「………別になんでもいいけど」
 戸惑ったように頷いて、彼が部屋を出て行った。

 エルノアス。
 暗闇でも光って色んな色に輝いて見える宝石の名前だ。













テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学


 翌朝、体中が痛かった。
 久しぶりに歩き回って、硬いベッドで眠った所為か、目覚めが悪かった。いつまでもベッドの中でごそごそしていると、シーツを剥ぎ取られた。
「いつまで寝てんだ。起きろ」
「うう…」
「移動するぞ」
「ううう…。眠い…」
「寝起き悪い王子なんて最悪だぞ」
 エルノアスが転がったままの俺の腹を蹴った。思わず上半身を起こして咳き込む。
 信じられない。蹴った。寝起きの人間を蹴ったぞ、こいつ。
 俺が涙目で睨み付けると、彼はベッドの上で腕を組んで土足で仁王立ちしていた。行儀の悪い子。
「おはよう、王子様。行くぞ。メシは抜きだ。荷物だけ持って出る」
「…顔くらい洗わせてくれ」
 そういうと、濡れタオルを投げつけられた。顔面で受け取る。
「歯も磨きたい」
「黙れ。どんだけお坊ちゃまアピールだよ。命狙われてるって自覚を持て」
「…君も俺のこと狙ってなかったっけ?」
「今殺されたいか」
 エルノアスが俺の腹の上に跨った。俺の胸倉を掴んで至近距離で笑う。あ、寝起きにこの笑顔は強力かも。
「…君、笑うと可愛いな。もっと笑えばいいのに」
「……………寝起きのお前に絡むのやめるわ」
 エルノアスがげんなりした表情で、俺の胸倉から手を離した。
 その時。
「おはよう!少年たち!!よもや朝っぱらからイチャついてんじゃないだろうな!」
 大きく扉を開け放して現れたのは、昨夜の招かれざる客、サイハだった。
 俺の上に跨るエルノアスと俺を交互に見て、無表情で呟く。
「騎乗位か…初っ端からやるな」
「…帰ってくださいお願いですから」
 エルノアスが引き攣った顔でお願いすると、ずかずかと大股でサイハが近づいてきた。ベッドの端に許可なく腰掛ける。
「何なら3人でヤ…」
 言い終えない内に、エルノアスの回し蹴りがサイハの後頭部にヒットした。


「どこ行くの?」
 エルノアスに手を引かれ、宿の狭い階段を下りていると、サイハがくっついてきた。
「あんたに関係ない。仕事戻れよ!なんで朝までいるんだよ」
「だって結局昨日は未遂だったわけだしさー。こう軍隊って男臭いっつーかなんかムラムラしたオーラが漂ってるっつーか…そう、不健康なんだよねー。だからこう、ちょっと息抜きにキレイどころと遊びたいじゃん?」
「知らん。帰れ。一人で抜いてろ」
「手だけでも貸してくれないか。そっちの王子様でもいいよ」
 サイハの言葉に、エルノアスがようやく足を止めた。俺も振り返ると、サイハが人懐こい笑顔を向けてきた。
 王子様と言った。冗談で?いや、本気か?分からない。分かり難い、この人。
 ぴんと張り詰めた空気が、一瞬漂う。
 が、その空気を感じていないのか、サイハが続けた。
「なーんでここにいるんだろ。死んだはずの王子様が」
「え…?」
「サイハ!!」
 エルノアスが鋭い声を上げた。


「レイサード王子?」


「走れっ!」
 エルノアスが俺の背を押した。俺と、サイハの間に立つ。思わず、振り返る。
「エルノアス?」
「いいから走れ!死んでも走れ!」
「あれ?なんで庇うの?つーか、エルノアスってなに?宝石?」
 サイハが大股で一歩近づく。エルノアスの胸倉を掴んだ。顔を近づけて彼の耳元に囁く。
「…お前は『ナナゼロニ』だろ?」

 ――『ナナゼロニ』

 そうか。今頃分かった。

 702。

 番号。

 気がつくと、足が動いていた。サイハと、エルノアスの間に立つ。サイハの、腕を掴む。
 二人が、同時に俺の方を見た。二人の視線を感じながらも、低く声を発した。
「…離せ」
 軍人の鍛え抜かれた逞しい腕。俺が掴んでも、ぴくりとも動かない。
「…王子様が相手してくれるの?」
 サイハがエルノアスから手を離した。代わりに、俺の手首を取る。
「何してんだっ!走れっつったろ!」
「嫌だ」
 エルノアスが怒鳴るのを、俺は他人事みたいに聞いていた。
「お前なあ!ちょっとは聞けよ、ひとの話!!」
「なんで番号なんだ」
「は?」
 サイハが間抜けな声を上げる。
「なんで番号で呼ぶんだ」
「…何言ってんのこの子は」
「番号は名前じゃない!」
「もういい!!」
 エルノアスが俺の背中のシャツを掴んで叫んだ。
「どうでもいいっつったろ!?呼びたい名で呼んでくれれば、オレは構わないんだ!なんでお前がキレんだよ!!意味わかんねえよ!つか話がずれてるしよ!!」
「どうでもよくない!!」
 人は序列で片付けられない。なのに、なんでわざわざ番号で呼ぶ?
 番号に、深い意味や込められた想いなどないだろう?
 なんでそんな呼び名を認める?
「オレがいいっつってんだからいいんだよ!!」
 ぐいっと肩を掴まれた。エルノアスが、俺の視界に映りこむように回り込んできた。俺を見上げて怒鳴る。

「他は関係ない!あんたが名前で呼んでくれればそれでいいから」

 初めて見た。必死な表情。
 そんな表情を見せられては、何も言えなくなってしまうじゃないか。

 二人で黙り込むと、空気を読まないらしいサイハがぽつりと言った。
「…王子様、グレイヴのこと知らないんだ」
「…グレイヴ?」
 また、知らない単語。ぴくりとエルノアスの肩が揺れた。その肩を掴んで、サイハがエルノアスの耳元に囁きこんだ。
「ちゃんと教えてあげなきゃ駄目だよ、先生」
「……っ」
 エルノアスが肘を上げて振り払う前に、サイハがひょいと身をかわした。
「じゃあね。とりあえずお仕事戻るわ。また会おう」
「…二度と会わねえよ」
 手を振るサイハに、エルノアスが悪態吐いて見送った。



 エルノアスはコンパスの割に、足が速い。俺はおいて行かれないよう小走り気味で彼の背にを見失わないようにするのが精一杯だった。
 というか、城下町って人が多いんだな。こんなにもたくさんの人、久々に見た。
 正体を隠せるようにと、長めのフード付きの衣装を渡され、それを羽織って町を歩いた。活気の溢れた商店街。珍しいもので溢れかえっている。ひとつひとつゆっくり見たいが、エルノアスの足が速すぎてそれどころではなかった。
 …そういや、さっきから、一言も喋ってないな。振り返りもしないし。…怒ってんのかな。
 俺が名前の件でしつこく食い下がるから…
 謝った方がいいのかなと考え事をしていると、子どもとぶつかった。俺の足に弾かれた子が、通りに仰向けになって転がった。
「うわあ!?ごめん!大丈夫!?」
「…へいき」
 その女の子は、こけても涙ひとつ見せず、砂埃の汚れを自分で払って立ち上がった。傍に転がったポーチを拾ってあげる。
「ごめんね。はい、これ」
「ありがとう」
 そう言って、彼女はポーチの中身を小さい手の平に出した。現れたのは、金や銀や銅の小さいコイン。
「…ぜんぶある。よかった」
 にっこり笑ってその子は通りの向こうへ駆けていった。
 その後姿を見送って、俺ははっとした。
 あ、お金。
 そういえば、俺宿代とか食事代とか出してない。
 確かちょっとは持ってきたけど、そんないつまでも食いつなげる額じゃないし。
 エルノアスもそんなお金持ってるようには見えないんだけどな。一体どこで稼いで…
「てめえ!!」
 ぱんっと後ろから頭をはたかれた。
「なにしてんだ!!さっさと来い!!一番長居したらヤバイ場所で何してんだ!?」
「…すみません…」
「くそっ!首輪つけるぞ!?」
「勘弁してください」
「だったらオレから離れるなっつの!分からず屋にも程があるぞ!」
「じゃあ…」
 ひょいとエルノアスの右手を掴むと、そのまま握った。エルノアスがきょとんとする。
「…………何すか、コレ」
「はぐれないように」
「あんたは子どもかっ!!」
「本で見た。迷子にならないようにお母さんが子どもの手を引くんだ」
「オレはあんたのお母さんか!?」
「君指長いなー」
「聞け!頼むからひとの話を聞いてくれ!」 
「…もう怒ってない?」
 俺が彼を見下ろすと、エルノアスが不審げに眉を寄せた。
「なにが?」
「…名前の話」
 俺が短く答えると、エルノアスが俯いた。しばらく黙って、それから言った。
「…怒ってねえよ、初めから」
「そうだった?」
「……嬉しかったんだよ」
「え?」
 喧騒に掻き消されて、聞き取り難い声。なんてったんだ、今。
「なんて言った?」
「……っ、急ぐぞっつったの!」
 そういうと、彼は俺の手を引いて走り出した。

 だから、速いってば。
















テーマ:自作BL小説 - ジャンル:小説・文学


いつの間にやら、60000HIT超えてました!
ありがとうございます!!ありがとうございます!!!

これからもぼちぼち頑張りますので、
よろしくお願い致します♪


さあ、雑談恒例!
最近はまってるものを紹介するコーナー!!いぇい!

バレーボール!!(女子、北京出場おめでとうっ)
純情ロマンチカ!!(やっと10巻まで揃えたよっ)
ROOKIES!!!(若菜が好きなんだー)
キセキ!!!(リピートして聞きまくってるよ!!)
次のうたばんはROOKIESメンバーが出るらしいので楽しみです。
(どんだけ好きやねん)


さて、拍手コメント下さった方、
追記よりコメントさせていただきました☆
(反転させてお読みくださいっ)



テーマ:腐女子日記 - ジャンル:日記


 ただでさえ世の中の情報に疎いというのに、更にややこしい宿題が山積みになって頭の中が整理できない。
 
 1、サイハが何故俺の名を知っていたのか。
 2、『死んだはずの王子様』とはどういう意味か。
 3、『ナナゼロニ』とは何の番号か。
 4、グレイヴとはなにか。
 5、何故、エルノアスはまだ俺を殺さないのか。


 いや、まあ今殺されるのは困るけどね。せっかく塔から出してもらったわけだし、どうせならもう少し満喫してからでも…。
 でも…約束だしな。
 約束は、守らないと。

 手を繋いで、人混みを避けながらさっさと早足で抜ける小さい背中を見つめた。
 俺より小さくて細いくせに、俺より強くて頼り甲斐のある少年。生きてるか死んでるかも分からない親を持って名前もつけられないで生きて。
 塔で閉じこもって本だけ読んできた俺とは全く違う世界を生きている彼。
 …この子が来てくれなきゃ、俺はきっとずっと塔に閉じこもったままだったんだよな。
 感謝の気持ちを伝えたくて、思わず繋いでいた手を強く握りなおすと、エルノアスが肩越しに振り返った。眉間に皺が寄っている。
「…なんだよ」
「…聞いてばかりで恐縮なんだけど」
「そう思うなら黙って足動かせ」
「どこに向かってるんだ?」
「港」
「港!?船に乗るのか!?」
「急にテンション上げるなよ…」
 俺が興奮気味に食いついたのを見て、エルノアスがうんざりしたような表情を見せた。
「だって船初体験だし!あ、でも船乗るのって結構お金要るんじゃ…」
「金はあるから平気だ」
「…前から聞こうと思ってたんだけど、君の財源は一体どこから?」
「あんたを殺した報酬」
 あまりにもさらりと言ってのけたエルノアスの言葉を、一瞬流しかけた。
「俺を殺した報酬!?えっ!?過去形!?どういうこと!?」
 慌ててエルノアスの肩を掴んで引き止めると、鬱陶しそうにその手を振り払われた。
「うるせーなあ。サイハが言ってたろ。残念ながらあんたは死んだと発表されてるんだよ。3年前にな。だから塔が燃えて、当然ながら遺体が見つからない今、城サイドは非常に焦ってらっしゃるわけですよ。死んだはずの王子にうろちょろされたら困るってんでな。一応あんたが現在唯一の王族後継者だし、3年前の写真でだけど、世間にあんたの顔は知れ渡ってるわけだし。だから兵隊さんとかに見つかったらオシマイなんですよ王子様。だからさっさと歩いてくださいよ」
「ど、努力はしてる……ていうか…」
 さきほどの宿題の、1と2の答えは見えた。
 でも…
「…俺を殺した報酬って…君は誰かに雇われたんだよな?一体誰に?それに、実際俺はまだ殺されていない。なのに報酬が支払われているのは何故だ?なんでまだ俺を殺さない?」
 俺の矢継ぎ早な質問に、振り返りもせずに早足で歩きながら、エルノアスが答えた。
「――自分で考えろ」
「え…」
 あっさり突き放されたような物言いに、思わず閉口してしまった。エルノアスが続ける。
「質問ばっか飽きた」
「あ、ごめん…」
 俺が謝ると、エルノアスが振り返った。
「外の世界を知りたかったんだろう?充分味わえ。そんで絶対に忘れんな。こんな世界が、たくさんあるんだって。あんたの見てる世界だけが全部じゃないって。
 ――なあ、今、あんたのいちばん見たいものは何だ?」

 エルノアスの後ろに、真っ青な世界が広がった。
 海だ。久しぶりに見た。潮の香りがここまで届く。空と繋がって、一つの青い世界みたいに見える。綺麗だ。視界いっぱいに広がるこんなにもたくさんの青を、また見られるなんて思ってもいなかった。
 エルノアスの質問に、俺は正直に答えた。

「君の見てる世界」
「……………なんだって?」
「君の見てる世界を、俺も味わいたい」
「……今見てるだろ」
「そうじゃなくて…なんて言ったらいいか……」
 不審げに眉を寄せるエルノアスを見下ろし、俺は答えに詰まった。人に気持ちを伝えるのってもどかしい。それでも何とか思いついて、そのまま言葉に乗せた。


「今は、世界よりも君のことが知りたい」


「こんなとこで告白してる場合じゃないと思うけど」


 ぼそりと聞こえてきた低音は、いつの間にそこに居たのか、エルノアスの背後に影のように立っていた長身の男から発せられた。
 余りにもはっきりと、エルノアスの顔色が変わったのが分かった。瞬時に鋭く振り返って、俊敏にその男から距離を取る。
 全く気配を感じなかった。今、そこにいるのに存在感が感じられない。背景は青い美しい空と海のはずなのに、その男がそこに立っているだけで、灰色に滲んでいくような気がした。どす黒い、不穏な空気を纏わせた男は、俺より年上でサイハよりは年下のように見えた。決して寒くはないはずなのに、灰色の長いコートを纏っている。フードで覆われた表情は怒っているのか笑っているのか検討もつかなかった。ただ冷たい。 
「いつまで遊んでるんだ、ナナゼロニ。早く戻れ。こんなつまらない遊びはさっさと終わらせろ」
 灰色の腕が伸びて、エルノアスを捕まえようとする。びくっと怯えたようにエルノアスが身を竦ませた。
 こんなにも恐れている彼を見るのは初めてだった。
 この灰色の男は、味方ではない。
 俺はそう瞬時に判断すると、エルノアスの手を取った。そのまま、城下町の方面へと引き返す。
「お、おい…!?」
 エルノアスが、手を引いて走る俺の背に、戸惑ったような声をぶつける。しかし構わずに走った。人を避けて、路地をめちゃくちゃに走る。追ってくる気配はなかった。
 なんとか、路地裏まで逃げ込むと、俺は壁に手をついて呼吸を整えるのに必死になった。エルノアスは、そんな俺の様子を見て、息一つ乱さずに呆れた表情を浮かべて言った。
「…なんで港から遠ざかるんだよ」
「だ、だって…なんか、やな雰囲気だったし……」
「…ああ、最悪だよ」 
 エルノアスが壁に背を凭れさせて、俯いた。
「あいつに見つかるなんて」
「…誰なんだ?」
 俺が尋ねると、エルノアスが忌々しそうにその名を呼んだ。
「セラスト」
 俺が滴る汗を手の甲で拭うと、エルノアスが続けた。
「あいつからは逃げられない」
 その彼の拳は、震えていた。



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 エルノアスの震える拳を見て、俺は思わずその手を手に取った。すると、驚いたようにエルノアスが顔を上げた。大きい金の瞳を俺に向ける。
「な、なんだよ…」
「さっきの、セラスト?君の知り合い?」
 俺が尋ねると、エルノアスが目を逸らして舌打ちした。
「…単なる顔見知りだよ」
「…顔広いんだな。…手、震えてるけど」
 俺が拳を解くように彼の手を開かせると、エルノアスが慌てたように俺の手を振り払った。
「うるさいよ」
「…ごめん」
 機嫌の悪そうな表情。素直に謝ると、溜息を吐かれた。ぼそりとエルノアスが呟いた。
「…あいつだよ」
「え?」
「あんたを殺せって言ったの」
 どくんと体が強張る。
 灰色の姿が脳裏に焼きついている。存在感のほとんど感じられない、どす黒い気配を纏った男。
 あいつが、俺を…?
「…何者なんだ…?」
 俺の問いに、エルノアスは何も答えなかった。
 ――何か隠してる?
 あいつに会ってから、なんか落ち着かないというか、様子がおかしい。
「エル…」
「あれ?お前ら何してんのこんな辺鄙なとこで」
 俺が彼に声を掛けようとした瞬間、路地裏から能天気な聞き覚えのある声が届いた。慌てて振り返ると、浅黒い肌を持つ大柄な男が細い路地から顔を覗かせた。きっちりした制服に、軍人の象徴とも言える大きい銃を携えていた。その物騒な格好に伴わない人懐こい笑顔を浮かべてこちらに歩み寄ってくる。
「こんなに会うなんて、もう運命だとしか言いようがないと思わないか?」
「思わない」
 あっさり切り返したエルノアスが、今度は俺の手を引いて、サイハの横を抜けようとした。
 が、サイハが長い腕を伸ばした。そのままエルノアスの腹に腕を回して抱えた。
「!!離せっ!!」
 ひょいっといとも簡単に抱きかかえ上げる。余りの素早さに、俺は呆然として彼らの様子を眺めるしかなかった。まるで人形のように抱き上げられたエルノアスは、サイハの腕の中で暴れまくっていた。
「離せっつってんだろーがボケ!!」
「あっはっは!可愛いなあエルちゃんは」
「何がエルちゃんだっ!!」
「じゃあナナちゃん?」
「ふざけんなっ!!下ろせ!!」
「嫌だ。連れて帰る」
「あのなあっ」
 きつく締め上げる腕から何とか逃れようとしているエルノアスが、呆然としている俺に気づいて言った。
「おい!蹴れ!このおっさんの向う脛蹴れ!!」
「無理だって。王子様の足のが折れちゃうよ」
「エルノアスをどうする気だ」
 二人を無視して、俺がサイハに問うと、エルノアスが人の話を聞けーっと怒鳴っていたのも無視してサイハがにっこり答えた。
「こうする」
「!?」
 サイハがエルノアスの後ろ髪を掴んで顔を上げさせると、一瞬の隙をついてそのまま彼の唇を奪った。
「―――っん!」
 角度を変えて何度も口付ける。その間もエルノアスがサイハの厚い胸を叩いて退かせようとする。しかし、鍛えられた体はぴくりとも動かない。代わりに、少し口を離して囁く。
「本当の姿、王子様にも見せてやれよ」
「!!」
 エルノアスの表情が変わった。サイハの大きい手の平が、エルノアスの服の裾を捲った。そのまま素肌に這うように滑り込ませる。
 それを見た途端、俺は足を振り上げた。
 かっと全身に血が上った気がした。目の前が真っ赤になる。それ以上、見たくない。見せて欲しくない。

 ふざけんな。

 思いっきり、サイハの革靴の上から何度も右足を踏みつけた。しかし、安全靴のため、ダメージはなかったようだ。顔色一つ変えず、サイハがエルノアスから口を離して俺の方を見下ろす。にやりと笑う。
「ああ、王子様もしたいの?」
 全身の血液が急速に顔面に集中したみたいだ。顔中熱い。 
 俺はそのままサイハの右向う脛を蹴り飛ばした。
「あだっ!!!」
「殺すぞセクハラじじい!!」
 怒鳴り声と同時に、エルノアスが膝を曲げてサイハの股間を蹴り上げた。ダブル攻撃であっさり撃沈。サイハが地面に膝をついた。ぎりぎりと砂利を握って悔しがっていた。
「………っの、くそガキども……!!」
「変態野朗が」
 エルノアスが息を荒くして、手の甲で唇をがしがしと拭う。サイハに背を見せないように立って見下ろす。
 サイハが自分の腰を拳で叩きながらゆっくり顔を上げた。
「おのれ…セクハラはどっちだっつー……」
 俺と、エルノアスの中間で視線を固定させて、台詞を止めた彼に、俺とエルノアスは同時に眉を寄せた。そして俺たちが同時に振り返る前に、瞬時にサイハが動いた。先ほどのふざけた表情から一転。素早く、銃を構える。
 一気に、その場の温度が下がる。
 慌てて飛び退くと、エルノアスが俺の目の前に立った。庇うように、片手を大きく広げる。よく見ると、右手は拳をきつく握っている。
 震えを、誤魔化しているのかもしれない。
 サイハが、更にそのエルノアスの前に背を向けて立ちふさがった。
 銃を構えたまま、正面に立つ温度のない男を見つめる。
「…セラスト」
 名を呼ばれた灰色の青年が、顔面を覆うフードを取り払った。現れたのは、思いの外美しく暗く冷たい真っ暗な瞳だった。長い黒い前髪が風に流されているのも構わず、真正面に立つサイハを通り越して、エルノアスだけを見つめている。
「遊びは終わりだナナゼロニ。戻るぞ。お前には失望したよ。ここまで使えないとは思わなかった。俺が直々に調教したのにも関わらずなんてざまだ」
 鼓膜に氷を押し当てられたみたいだ。冷たくて痛い声。聞いてるだけで肌が粟立つ。いや、声だけじゃない。その、内容にも俺は鳥肌を立てているんだ。
 使えないってなんだ。調教ってなんだ。
 ひとを、ものみたいに、動物みたいに。
 
 俺が一歩踏み出す前に、サイハが笑った。
「丁度良かったよセラスト。会いたかったずっとあんたに」
 ようやくサイハの存在に気づいたようだ。銃を構える彼に、セラストは一瞥をくれて言った。
「軍人が何の用かな」
「お前を拘束する」
「なぜ」
「なぜ?自分のしてること、わかんねえのかよお坊ちゃま」
「俺は遊んでるだけだよ」
 セラストの言葉に、エルノアスが拳をきつく握り締めたのが見えた。思わず、その手を掴む。
 そんなに強く握ったら、皮膚が裂けてしまう。
 そんなに強く握るほど、恐れているのだろうか。
 彼の不安を取り除きたくて、両手で握りこむと、エルノアスが肩越しに振り返って俺を見た。

 そのとき。

「おいで」

 氷より冷たい声が響いた。
 ぴくりとエルノアスが肩を震わせる。ゆっくり、セラストの方を見つめる。
「エルノアス」
 俺が呼んでも、答えない。俺の手をすり抜けて、ふらふらと、セラストの方へと歩み寄る。
「おい!」
 サイハが呼ぶのも構わず、エルノアスはゆっくり確実に、セラストの傍に立った。
 セラストが妖しく笑んで、エルノアスの頭を撫でた。
「よくできました」
「エルノアス!」
 鋭く名を呼ぶと、不快な様子で、セラストが形の良い眉を寄せた。
「なんだ?その名は?所有者のつもりか?」
「どこ行くんだよ!?戻ってこいよ!」
 セラストの言葉を無視して叫ぶと、セラストは益々気分を害したようだった。乱暴に、エルノアスの後ろ髪を掴んで、こちらに見えるように彼の項を示した。
 愕然とするしかなかった。
 エルノアスの細い項には、焼印があった。

「…702……」

「俺のオモチャなんだから。勝手に名前つけるなよ」

 そう言って、セラストがエルノアスの項の焼印を愛しそうに舐めた。 












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 そういえば、デートらしいデートをしたことがないということに、今頃気づいた。
 付き合い出して1年以上経つのに。一緒に住み始めて1ヶ月以上経つのに。


「というわけで、デートをしようと思うんですが」
 夕飯時、俺は思い切ってクロに提案してみた。すると、クロが焼き鮭を丁寧にほぐしながら言った。
「どこに?いつ?」
「今度の土日は?」
「就活とバイト」
「…んじゃ来週は?」
「就活とバイトと卒論の下書き発表」
「……んじゃ再来週は?」
「就活とバイトとレポート2つ提出とインターンシップが」
「やる気あんのかてめえはああ!!?」
 俺が勢いよく席を立って、正面のクロの胸倉を掴んで揺すると、クロが箸で器用に鮭を掴んだまま言った。
「やる気はある。ただ時間がないだけで…」
「作れ」
「そりゃノゾミはいいよな。内定もらってるし。卒論も下書き済んでるんだろ」
 そう。クロと別れる寸前の大喧嘩をした際、俺は就活と卒論に情熱を注いだ。が、クロは逆に何をやってもうまくいかなかったらしい。
 んで現在に至る。
「がんばれよっ」
「頑張ってるっつの」
 お互いとりあえず落ち着こうと、きちんと着席して夕飯を再開すると、クロがぽつりと言った。
「…そうか。ノゾミ、オレとデートしたかったのか。知らなかった」
「……別に。ただ単に、そういやしてないなーって思っただけ」
 俺が不貞腐れて答えると、クロがにやりと笑った。
「ちなみにどういうデートご希望でしたか?」
「漫画喫茶か釣堀」
「………………デート??」
「デートだろ?ちなみにクロのご希望のコースは?」
 俺が尋ねると、クロが箸を置いた。そして真っ直ぐ俺の方を見据える。
「…オレに決めさせるのか」
「はあ?」
「オレに決めさせてくれるんだな?」
「いや、決めさせるっつーか、どういうとこ行きたいのかって聞いてるだけで…」
 俺が困惑していると、クロがいきなり席を立った。びくっとして身を仰け反らせると、クロが自分の部屋の方へと走っていった。しばらくがたがたと何かを探るような音がして、何かを抱えて戻ってきた。
 ばさっと机の上に広げる。
「……なにこれ?」
「こういうこともあろうかと思って、揃えておいた」
「……………」
 カラフルで派手な煽り文句のついた大量のパンフレット。タイトルは全て統一されている。
「新婚旅行……??」
「オレの希望としてはフィジーかピピ島だな。あ、でもコアラ抱っこしてみたいし、イルカと一緒に泳げるとことかでも」
「デートだっつってんだろが!!!どんだけ飛躍するんだお前はーーっ!?」
「いいじゃん。初デートが新婚旅行」
「いやいやいやいや!!」
 慌てて手をぱたぱた振ってみせると、クロがにやりと笑ってみせた。
「ああ、婚前旅行でも構わねえけど」
「だから、なんで旅行なんだよ!?デートだって言ってんじゃん!!」
「国内でもいいぞ?オレ沖縄行きたい」
「じゃあ沖縄な!デート沖縄な!!現地集合な!!」
「壮大なデートだなー」
「お前が言い出したんだろっ!!」


 初デートは遠そうだ…(色んな意味で)






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 ――オモチャ?
 オモチャってなんだ。
 ふざけたことばかり言いやがって。

 ――遊んでるだけだって?
 遊んでるだけで、こんなにエルノアスが怯えるもんか。


 こんなに腹が立つのは久しぶりで。目の前がちかちかする。
 無意識に、セラストに掴みかかろうとすると、腹に腕を回され、引き止められた。驚いて振り返ると、サイハが俺を背後から羽交い絞めにしていた。
「離せっ!」
「無駄だ。下がってろ、ひ弱な王子様は」
「な…っ」
 サイハが、俺を横へ押しのけるのと同時に、銃を構えなおした。照準はセラストの眉間。
 が、セラストは微動だにせず、微笑を浮かべたまま銃口を見つめていた。エルノアスの髪を梳いたまま問う。
「お前もコレで遊んだんだろう?軍人。まだ幼いが、なかなか良かったろう?」
「…常連だ」
 サイハの回答に、セラストが初めて声を出して笑った。
「はは!俺が開発してやったんだよ。お前に感謝されども恨まれる筋合いはないと思うが?」
「あるよ」
「なんだ?なにが不満なんだ」
 サイハとセラストが睨み合っている間、俺はサイハの横をすり抜けて、ぼんやり立っているエルノアスにそっと近づいた。彼の肩を掴む。
「…エルノアス」
 俺が呼ぶと、彼がゆっくり目を上げた。金の瞳に俺を映す。
「今のうちだ。行こう」
 手を引くと、その手を緩やかに振り払われた。思わず、彼を凝視する。
「エルノアス…?」
 俺に名を呼ばれて、エルノアスが笑った。苦しげに、きつそうに。
 そして首を横に振った。
「……行けない」
「なんで」
「オレは、セラストの傍にいないと…」
「何言ってるんだ?」
 恐れているんじゃないのか?怯えているんじゃないのか?最悪だって言ってたじゃないか。
 なんだ、この変わり様は。
 自分が激しく動揺しているのが分かる。
 だって、俺はこの子がいないと何もできない。何も知らない。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか分からないのに。
 俺はエルノアスの肩を掴んで揺さぶった。
「なあ、頼むよしっかりしてくれよ。俺は君がいないと困るんだ。どうしたらいいのか分からない。どうしたんだよ急に…」
「暗示だ」
 サイハが俺の背にあっさりと解答をぶつけた。銃口を向けたセラストを睨み付けたままで、こちらに視線もくれずに続ける。
「暗示にはいくつか種類がある。そいつがかけられているのは『拘束』だ」
「拘束…?」
「相手の意思もお構いなしに、良いように扱うことができる」
 目を見開いた。正面のエルノアスを見つめる。
 彼も、かかっていたのか、暗示に。
「…解く方法は…?」
「ないよ。お前もナナゼロニから聞かされたはずだ。根本から考えを変えないと無理だって」
「そんな…」
 セラストが、銃身を片手で掴んだ。サイハがぎょっとしたようにたじろぐのが分かった。真っ直ぐ伸ばされたサイハの逞しい腕が徐々に小刻みに揺れるのが分かった。
「な……っ!?」
「小さい頃に習わなかったのか王子様?…人のものをとってはいけませんと」
 そのままセラストが、銃口を天に向けるように力を込めた。銃を握ったサイハの指が不自然に曲がる前に、サイハが膝を振り上げた。セラストがそれを寸ででかわして、銃身から手を放して一歩退いた。

 そのまま、俺の手からエルノアスを奪った。

 背後から、エルノアスの顎に手を回して上を向かせると、キスできる直前まで顔を寄せて囁いた。
「何度言っても聞かない子だねお前は」
 そう言って、セラストがエルノアスの顔を俺の方に向けさせた。


「レイサード王子を殺してきなさい」










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議題:距離を縮めなさい


「いつまでも『名越先輩』では、僕らの信頼はなかなか深まらないと思うし、余所余所しさばかりが募ると思われますので、ここで一気に距離を縮めるためにも、各自素敵なニックネームをつけようと思います」
「嫌です」
「瀬尾くんは『蒼士』で良いね。ちなみに僕以外は彼のことを『瀬尾っち』と呼ぶように」
「バイカル湖に沈みたいんですか」
「僕のことは『一葉』と呼んでくれて構わない。おっと、しかしそれは瀬尾くん限定だがね!瀬尾くん以外には『なごちゃん』とでも呼んでもらう」
「…呼びません」
「なごちゃんって…」
「どっかの地域限定のキャラクターみたいじゃないっすか」
「ちなみに三嶋くんは『サン』七尾くんは『ナナ』近澤くんは『ちかちゃん』だっ!!」
「そのまんまじゃないっすか!!」
「どんだけセンスないんですかあんたは!?」
「……女の子みたいで嫌です」
「全く…君達は文句を垂れるのだけは一人前なのだね…。よろしい。ではどんなあだ名が希望なのだ?言ってみたまえ」
「ますみん」
「ミッスィー」
「ひろひろ」

「……お前ら…」


 距離は益々広がりました。



以上













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 いちばん最初の記憶は、温度。
 冷たいとか寒いを通り越して、痛かった。
 痛いという感覚なのに、現在自分の感じているものは温度なのだと分かった。
 頬に当たるぴりぴりとした感覚。
 握らされたものの重い感覚。
 全部冷たくて、痛かった。

 目の前に現れた男の目も同じ。鋭くて冷たい。あたたかさなど微塵も感じられない。

 だから、オレのいちばん最初の記憶は温度。

 氷より冷たくて水の中より寒い。

 オレは多分、ここから一生抜け出せない。
 ずっと囚われたままだ。



「702番目だ」
 オレが無言で目を上げると、大きい冷たい手で顎を掴まれた。瞳を間近で覗き込まれる。冷たい微笑み。笑顔まで温度で伝わるのだと、その時初めて知った。
「…珍しい色の瞳だな。お前は長く楽しめそうだ」
「……………腹、減った」
「心配しなくていい。腹いっぱい満たしてやる」
「……今、食いたい」
「せっかちな奴だ」

 男は笑って、確かにオレの腹を満たした。
 勿論食事で、ではない。腹は腹でも内臓だ。内臓なんか満たしてくれと言った覚えはない。痛みをくれとも、快楽を与えろとも。


 セラストはオレの思いとは逆のことばかりしてくれる。オレの喜ぶことなんて、今まで一度もしてくれたことがない。つまりは、オレの嫌がることばかりする天才であって、ここまでくると、もうそういう能力者なんじゃねえのと思えてくる。

 セラストはオモチャを集めるのが大好きで、恐ろしい程飽きっぽい性格をしている。
 オレを拾ったあの大雪の日も、記念すべき701番目の車のオモチャを投げ捨てたところだった。そのオモチャが、丁度路地で寝ていたオレの頭にヒットしたのだ。

 あんな場所で眠るんじゃなかった。

 でも、オレには行くとこがなくて、誰もいなくて、誰も相手にしてくれなくて、オレなんかもうこんな世界にいなくてもちゃんと世界は動いてくし、名前すらないオレは、結局どこで寝てても寝てなくても誰の心も動かさないんだって、知ってたけど、分かってたけど、やっぱりどっかで、誰かにちゃんと呼んで欲しかったんだ。

「ナナゼロニ」

 もう呼んでくれるなら何でもいい。
 オレのことを、必要としてくれるのなら、何されたって文句言わねえよ。

 でも、オレは欲張りだから、ある程度満たされると、それ以上を求めてしまう。



 オレにちゃんと名前つけてくれて、ちゃんとそれで呼んでくれて、オレのこと必要としてくれる。


 そんな奴が現れたら―――




 でもセラストは、やっぱオレの嫌がることばっかするから、オレをグレイヴに入れた。


「レイサード王子を殺してきなさい」


 オレが『拘束』にかかっているのは知ってる。
 それの解除方法も知ってる。
 でも解かない。

 オレは生まれてから一度も他人に拘束されたことがない。
 親に名前すらつけてもらえなかった人間だ。
 だから、それを与えてくれるセラストを裏切ってしまったら、もう二度とオレは、ひとに必要とされなくなるんじゃないかって、一度そんな考えが浮かんだら、もうそれしか思いつかなくて、オレはセラストの傍を離れられなくなっていた。


 でも


「エルノアス」
 

 でも…


「俺と一緒に居て」


 伸ばされた手。
 あの暗い部屋で差し伸べられた手と同じ。
 オレを猫と勘違いして馴れ馴れしく呼んだ馬鹿王子。
 毎晩毎晩懲りずに餌を用意して、肉が食いたいと言ったら本気で用意した大馬鹿王子。
 ここから出してくれとお願いされたのも、約束しただけであんなに喜んだのも、身を挺して庇ってくれたのも、全部全部初めてで。
 オレに名前のないことを悲しんでくれた。
 番号で呼ばれていることを怒ってくれた。
 ちゃんと、名前をつけて呼んでくれた。

 オレは欲張りだから、それ以上を求めてしまう。


 だから本当は、あの世界から、助け出して欲しかったのは、オレの方だったんだよ。

 
 馬鹿王子が、相変わらず心配そうな顔でこちらを見つめている。
 王子様のくせに、馬鹿面下げてんじゃねえよ馬鹿。


 オレは笑って、彼の方へ手を伸ばした。













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 まだお風呂沸いてないって言ってんのに。

  
 二人でベッドに乗った途端、背後から抱きかかえられ、右肩に顎を乗せて先生が囁く。
「…俺が癒してやるよ」
 低くて甘い、俺の好きな声。項に唇を寄せられる。ぞくっと全身に染み渡る先生の温度。なんだか安心する。ゆっくり振り返ると、顎に手を掛けられる。先生の顔が近づく。
 もう何度もキスしてるはずなのに、毎回必ず緊張してしまう。心臓が高鳴って全身の温度が上がる。いい加減慣れろと自分を叱りつけたくなる。
 柔らかい唇を静かに押し当てられる。何度も何度も。時折、舌で唇を突かれて促されるようにそっと開くと、あっという間に滑り込んできた。俺の舌に絡みつく。始めはゆっくりなのが、徐々に激しさを増す。全部吸い取られるんじゃないかと思えるくらい、深いキスに切り替わる。その間も先生は抜かりなく俺の服を脱がしていく。シャツのボタンを毟られ、中に着ていたTシャツも一気に脱がされた。突然衣服を取り払われたために、温度差によって肌が粟立つ。それを大きな手の平で暖めなおすように撫でられた。
「ん……」
「…お前、肌キレイだよな。すげえ…そそる」
「…っそ、そんなのは、女の子に…言ってください…」
「言ったら怒るくせに」
 図星を指されて閉口すると、唇を指で抓まれた。そしてふっと笑う。
「おもろい顔」
「!!」
 遊んでるのかこのひとは!
 むかっとして唇を抓まれたまま睨み上げると、右ほっぺたをべろりと舐められた。そのまま首筋へと下りていって音を立ててきつく吸われる。
「あ、ちょ、痕つく…」
「つけまくってやる」
「子どもですか!?」
「俺のだからな」
 迷惑な宣言と共に、先生が自分の着ていたカットソーを脱いだ。適度に筋肉のついた滑らかな素肌が露わになる。思わずその素肌に手を置くと、その手を掴まれた。
 にっこり笑って先生が言う。
「…スケベ」
「なっ…!」
「…下、脱がせて」
「え、あ」
 手を、先生のベルトの方へと導かれる。いつもは先生が勝手に脱いでたから、脱がすのは初めてだ。なんか妙に緊張する。
 なんてことを考えていたら、あっという間に俺のズボンが下ろされていた。下着の上から撫でられ、握りこまれる。息を詰めると、先生が俺の耳に囁きこむ。
「手止まってる。全部脱がせろ」
「………っ」
 くそ。触られてたら集中できない。緊張で震える手を、何とか駆使してバックルを外す。ジーンズのボタンを外して前を寛げると、そのまま膝の辺りまで下ろした。そこまでで手を止めると、耳を舐められた。舌を差し込まれる。
「全部」
 なんか悔しい。調子に乗られてる気がする。なのに従ってしまう自分が情けない。
 先生の指が、俺の形に沿うように撫で上げてくるので、つい腰を引いてしまった。
「っ、んっ……」
「硬くなってきた」
「…へん、たい…」
 罵りながらも、何とか下着を下ろすと形を変えた先生自身が現れる。…いや、何回も見てるはずなんだけど。なんというか…
 凝視したまま硬直していると、先生が足を伸ばして座りなおした。足の間に、俺を座らせて正面で向かい合う形となる。
「お願いがある」
「…嫌です」
「…まだ何も言ってねえぞ」
「言わなくても分かります」
「なに?なんだと思う?」
 先生が意地悪く笑う。腹立つ。どうせろくでもないこと考えてるに決まってるのに。それを口にしたら俺の負けな気がするので黙った。
 先生が、左手で俺の前髪を掻きあげた。露わになった額にキスしてくる。そのままさらりと言い放った。
「口でして」
「嫌です無理ですできませんっ!!」
 即答すると、先生が思いっきり眉を顰めた。
「なんでだよ。俺いつもしてやってるだろ」
「いや、でも…」
 俺が言い淀むと、諦めたのか大きく息を吐いて先生が言った。
「じゃあ、手でして」
「あ……」
 手、なら自分でするのと変わらない。俺は腹を括った。きちんと座り直して先生の下肢に手を伸ばした。指を絡ませると、微かに先生が反応したのが分かった。徐々に熱が高まる。硬度も増す。
「……先生…」
「……ん?」
「気持ち良いですか…?」
 小さく尋ねると、笑って軽くキスされた。再びキスできそうな至近距離で甘く囁かれる。
「…もっと気持ち良くして?」
「!!」
 強い力ではないけど、くしゃっと後頭部を掴まれた。そのまま、下肢の方へと緩やかに押さえ込まれた。慌てて、先生の脇に手をついて、それ以上押さえ込まれないように体を支えて目を上げると、先生がこちらを覗きこんで言った。
「――東郷」
 髪を梳かれ、頬を撫でられ、唇に指を押し当てられる。感触を味わうように何度も親指の腹で撫でられる。不意に隙間から指を押し込まれた。緩やかな侵入。歯を撫でられて舌を弄られる。口内の柔らかい場所を、親指だけでは物足りないらしく、人差し指も突っ込んで探ってくる。
「……っ、ん……ぐぅ……ッン…」
 端から、唾液が溢れて零れる。顎に伝うそれを、舐め取られる。

 先生が囁く。
「…お前の、ここで」
 唇を噛まれる。
「気持ち良くして…?」
 くそ。妙に色気振りまくなっての。




















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 先生が、俺の口の中に突っ込んだ指を何度も出し入れする。俺が口を閉じてしまわないよう、左手の親指で舌を押さえ込んでくる。右の人差し指と中指を同時に抜き差しを繰り返す。擬似的な動きに眩暈がする。
「……んんっ、んっ…ッ」
 苦しい。思わず先生の手首を掴むと、顔を覗き込まれた。涙目で睨みつける。
「…エロい顔」
 先生が嬉しそうに笑む。…どっちがエロいんだ。
 口の中から、指が抜かれた。唾液が糸を引く。
 先生が満足そうに意地悪そうに笑うと、その俺の唾液で濡れた指を舐めた。一本一本、根元から丁寧に舐める。その行為に、ぞくんっと背筋に何か這う感覚。
 ……くそう。ここまで誘われたら、やっぱり男として腹を括らねば…。いや、待て。なんか微妙に操られてる感じがして癪な気もする。というか、だって口だよ?そりゃ何回もキスはしてるけど、それとこれとは違くて、あんなもん咥えるなんて冗談じゃないって…。
 と、考え込んでいるといきなり下着の中に手を突っ込まれた。直に握られ、荒っぽく揺すられて、思わず腰が跳ねる。
「あっ!?――痛っ」
 そのままきつく根元を締め付けられる。おのれ、Sっ気全開じゃん。変態元教師めっ。
「放して、ください…っ」
 縋りつくように先生の肩に爪を立てると、先生が俺の顔を覗き込んだ。そのまま搾り出すような手つきで右手を上下させる。予想外の行動に、慌てて先生の肩口に顔を埋めた。変な声を上げるところだった。先生が手を動かす度に、ぞくぞくと快感がこみ上げて腰が浮きそうになる。
 必死でその責め苦に耐えていると、先生が耳元に吹き込んでくる。
「…馬鹿な生徒には根気良く何遍も教えるしかねえな。自分で出来るよう、完璧にマスターするまで体に叩き込んでやる」
「なっ!?」
 抗議しようとしたその瞬間、世界が反転した。肩を押され、背中にベッドの感触。天井の模様を確認。その俺の視界に先生の嬉しそうな顔が追加。
 にやにやしながら彼が俺を押し倒して言う。
「しっかり覚えるように。東郷涼太くん?」
 否応無しに下着を脱がされた。

 滑った熱い舌の感触が下腹部を襲う。臍を舐められ、そのまま一気に下へと下りてく。先ほどの行為により膨らんだものを、先生は躊躇うことなく自らの口腔内に招き入れた。急激な温度差と感触の変化に、背中が撓る。やっぱ未だに慣れないこの感覚。先生の言う通り、俺は学習能力が相当低いのかもしれない。細部に至るまで丁寧に舐め上げられ吸い付かれる。早く寄越せと言わんばかりに手も使って俺を追い上げる。わざとなのか、いつもより卑猥な音が大きいように聞こえる。先生は口に含めたまま上目遣いで息を乱す俺を見つめる。その表情はとても満足そうで、余裕綽綽という感じなので、悔しさが募った。だから絶対中には出さないといつも決心するのだが、その俺の決心を覆させるのが先生の悦びの一つとなっているので彼も負けじと俺をイカせようとするから性質が悪い。しかし、今回は何とか吐き出さずに済んだ。というか、先生が途中で口を放して、赤い顔で必死に耐えている俺を見下ろした。
「……っなん、ですか…?」
 じっと見下ろされると、羞恥心が増す。大体、中途半端なまま放置だし。間抜けな格好トップ5に入るだろ今の俺の姿は。
 先生が淡々と尋ねてきた。
「――覚えた?」
「……は?」
「覚えたろ、今ので要領」
「なに……」
「じゃあ交代」
「え?」
「イカせて欲しかったら先に俺を満足させてからにしろ。あ、絶対に無理っつーんなら、この場で自分でしてくれても全然構わないけどな俺は。他人の自慰なんて滅多に見る機会ないし、ましてや東郷のだったら後でいくらでもからかえ…」
 俺はキレた。
「―――こっの、ど変態ーーーーー!!!!」
 起き上がって先生の首を掴むと、そのまま前後に揺すった。
「何考えてんですか!!?どこまで必死なんですか!?あんた俺に嫌われたいんですか!?そんなアホらしい要求呑む訳ないでしょうが!!」
「アホらしくねえだろ。世界の雄を代表した意見だと思うが」
 がくがくと俺に揺さぶられながら先生が余りにもあっさり答えたので、俺は拍子抜けしてしまった。
 首から手を離して、がっくり項垂れる。すると、頭をよしよしと撫でられた。そのまま低く囁かれる。

「…お前の咥えてる姿、見たい」
「………ッ」
 変態だ。変態の極致がここにいた。























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 しばらく無言で睨み合っていると、先生が先に折れた。大きく息を吐いて言う。
「…そうだな、お前にはハードルが高すぎたな」
 俺が無言で居ると、先生がふっと笑って俺の頬を抓んだ。
「――お子ちゃまのお前には」
 ぴくっと俺が眉を跳ねさせると、先生が益々意地悪そうに笑んだ。
「二十歳になったと言えども、まだまだ経験値浅いもんなあ。だってお前、俺としかヤったことね…」
 俺は腕を伸ばした。先生の二の腕を掴んでそのまま後ろに押し倒した。先ほどとは逆転の体勢。先生が俺を見上げる。
 乗せられているとは分かっていても、ここまで言われちゃ黙ってられない。
「………やってやる」
「無理だって。だってお前童貞…」
 俺は急いで無礼千万な先生の口を手で封じた。そのまま上半身を折って先生の腹に口付けた。さっきしてもらったみたいに、舌を這わせる。

 くそ。腹立つ。馬鹿にしまくりやがって。俺だってもう成人男性だし。いつまでも子ども扱いされるのは悔しい。ただでさえ、俺と先生は経験値の差は勿論、年齢も離れてるし、距離を感じることが多いのに。
 だから、ちょっとでも、ほんのちょっとでもいいから近づきたいって思うのは当然だろ。
 なのに、いっつも先生は俺のことを馬鹿にして子ども扱いする。
 俺と先生の間にある距離を、はっきり自覚させてくる。
 それが、俺にはたまらない。
 俺は、ちょっとでもその距離を、無くしたいのに。
 なんでそれが分かんないだろうこの人は。

 先生がいつまでも俺をガキ扱いするんなら、俺は覚悟を決める。
 先生の望むことをする。
 先生が、それで俺のことを認めてくれるんなら、何でもする。

 逆流しそうになる胃液を、何とか嚥下する。一回、ぎゅっと目をきつく閉じて覚悟を決めた。
 先生だって俺の舐めてんだ。俺に出来ない訳がない。
 目を開き、口を開いた。手を添えて舌を這わせようとした瞬間、前髪を掴まれた。驚いて顔を上げると、肘で上半身を支えて起こした先生が、俺の方を見つめて苦笑していた。くしゃりと髪を撫でられる。
「……東郷」
「…じっとしててください。――噛み切りますよ」
「お前は俺を殺す気なのか」
「殺されたくなかったらじっとしててください」
「…冗談だよ」
「は?」
 なんのことだ?
 話が見えなくて、俺は手を離して、先生を見つめた。先生が、俺の髪から頬へと手を移動させる。壊れ物を扱うみたいに、そっと優しく撫でられて、キスされるよりもドキドキした。
「ガキなんかじゃないよお前は」
「え…」
「自分のことより、俺のことばっか考えてんじゃん」
 言い当てられた。
 思わず俯くと、先生が声に出して笑った。
「…無理しなくていいよ馬鹿。冗談だよ。つか手、震えてるし。そこまでしてやんなくてもいいよ」
「む、無理じゃないっ」
 俺は慌てて否定すると、そのまま口を寄せた。独特の匂いを堪えて唇をくっつけた。そっと先端に舌を滑らせると、先生が息を詰めたのが分かった。先生がやってくれたことを思い出して、唇と舌を這わせる。手を添えて動かす。息苦しくなるので、時折口を離して呼吸を整える。顎も凝ることに気づいた。なかなか苦しい作業。舌に広がる苦味も堪えて、吸い上げる。
「…ん……」
 微かに先生の口から吐息が漏れたのが聞こえた。イイ、のかな?
 反応が嬉しくて、もっとそんな先生の姿が見たくなる。徐々に追い上げると、口の中の体積と熱が増すのが分かった。先生の息が上がる。上目遣いに盗み見ると、先生の右手が俺の髪を梳いていて、左手でシーツを掴んでいるのが見えた。
「…む、ん…っぐ……」
 頭を上下に揺らす。唾液の絡む音と、先生の呼吸音が重なる。奥まで咥え込んで先端まで唇を滑らせる。手も使って扱く。それを繰り返す。やがて、先生が俺の髪を強く引いた。
「ぅン、はっ……」
「―――っも、いい…っ」
 俺が舌を離した瞬間、先生が体を震わせた。
「―――…ッ!」
 何度か痙攣した後、先生が大きく息を吐いた。呼吸を整えるように、シーツに沈み込む。
 その様子を見て、俺も息を整えた。息苦しいのは勿論、顎がしんどい。顎を伝う唾液と、頬に飛んだ精液を手の甲で拭った。
 そのまま、ぐったりしている先生を見下ろしてにっこり笑って見せた。

「……子どもじゃないでしょ?」
「……立派な大人です」
 ふふん。ざまーみろ。














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 先生が俺を押し倒す。
 てか、今日だけで何回押し倒す倒されるを繰り返してんだろ俺ら。

 真上の先生を見つめてぼんやりそんなことを考える。
 先生が俺の首筋に顔を埋めて、跡をつけようとしてくる。指の跡がつきそうなくらい、丹念な愛撫。
「……あ…」
 肩を胸を脇腹を腹を内腿を、先生の長い指が辿る。先生に触られているというだけでどきどきが止まらなくなる。もっともっと、触って欲しくなる。先生の肌を、温度を味わいたくなる。

 最初は、こんなこと考えたこともなくって、ただただ、俺のこと見て欲しいって、姉よりも誰よりも、俺のこと考えて思ってて欲しいと願っていただけだった。
 でも、先生が実際にこうやって俺に熱を与えてくれるようになって、俺はそれに慣れてしまった。その熱を、もっと求めるようになってしまった。
 自分は実はこんなに欲張りなのだということに気づかされたのだ。


 俺は小さい頃から、年の離れた姉と居たために、その年上の姉に見合うよう、大人の望む良い子を演出せねばならなかった。勿論、親や大人がはっきり口にしたわけではない。「お姉ちゃんが我慢してるんだから、あんたも我慢しなさい」というような理不尽な要求を突きつけられた記憶もない。両親は、比較的公平に俺と姉を扱っていたと思う。
 でも、物心がついてくると、何となく感じ取れてしまうのだ。ああ、この人はこうしてほしいと思っているんだなというように、人の顔色を窺えるようになってしまっていたのだ。果たして何故そんな技が身についたのか。答えは簡単。
 姉が、そういう子どもだったからだ。
 姉自身も、誰かにそういうことを言われたわけではないと思う。長女だった彼女は、俺が生まれてくるまでたった一人大人に囲まれて暮らしてきた。彼女の生活の中で大半を占める音は、両親や大人同士の会話。はっきり内容は理解しなくとも、こういうときにはこういう言葉を言うのだということを、無意識で学習していたんだと思う。更に子どもは大人の気持ちを察するのが意外と上手い。特に姉は、怒られないようにはどう行動すればよいかなど、無意識に学んでいたようだ。
 そういう賢い姉を持った俺は、自然彼女をお手本にしていたらしい。
 大人を困らせないよう、自分が怒られないよう、それを第一に考えて、そのためにはどうすればよいのかということを優先して考えて行動するようになっていたのだ。

 先生はそんな俺が気に食わなかったんだろうな。子どもらしからぬ俺が。
 自分で言うのもなんだけど、可愛くなかったもんなぁ、俺。

 だけど先生も先生だ。俺の泣き顔が見たいなんて言っておいて、実際に見たらおろおろして。
 …だけど、そんな先生が俺を変えてくれた。
 自分でも嫌になるくらい嫉妬深くて子どもっぽい俺をちゃんと理解してくれて、それでもちゃんと包み込んでくれた。
 滅多に、好きだとは言ってはくれないけど、それでもちゃんと俺を思ってくれてるのは分かってるから。
 でなけりゃ俺を傍に置くこと許さないよな。きっと嫌になったら即座に追い出すタイプだと思うし。
 …って、いかんいかん。また無意識に勝手に予測しちゃってるな。悪い癖だこれは。

 先生に気づかされたことがもう一つある。

 人の顔色窺って予測で行動するんじゃなくって、きちんと気持ちを言葉にすること、そして相手の気持ちをちゃんと確認すること。
 超能力者でもない限り、他人の気持ちなんて読めるはずないんだから。自分で、恐らくそうだろうと予測するのは止める。
 ちゃんと、言葉に、音に乗せよう。
 

 背中に熱いキスを降らされる。そのまま腰を撫でられ引き上げられる。濡れた股間を弄られて体内で指が蠢くのを感じた。
「――う…ッ」
「東郷…」
 先生が荒い息で俺の名を呼ぶ。腰に、先生の張り詰めたものが当たるのが分かって、今更ながら顔に熱が集中した。
「…く……っ、う」
 体内で蠢く指の本数が増えた。ゆっくり抜き差しを繰り返される。無意識に、縋りつくようにシーツをきつく握り締める。その俺の右手を、先生が上からそっと手の平を乗せて指を絡めてくる。解すような優しい仕草に、涙が零れそうになる。
 そんな丁寧に扱わなくても、それくらいじゃ壊れないのに。
 肩越しに振り返ると、先生が体を伸ばしてキスしてきた。舌を何度も舐め上げられる。その間も指の動きは止まない。微かにイイ場所に当たったりすると、びくんっと背中が撓った。
「ふ、ぁ…っあ!」
「…ここ?」
 低く、吐息ごと耳に吹き込まれて余計に快感が煽られた。また掠めるように指が当たる。
 最悪。遊んでんのかこのひとは。
「あ、ちょ、…やめ……」
「すげえ勃ってる」
 くすくすと背中で笑われ、かっと全身に血が行き渡る。
 遊んでやがります!!完璧!!
 ムカついて怒鳴ろうとした瞬間、指が抜かれた。直後に、熱い塊を押し付けられた。
「うあっ!?あああっ」
 ちょ、ちょっと待て!今回、急に、いきなりこんなハードに…
 俺の悲鳴に混じって、ベッドのスプリングの軋む音が派手になった。
 腰を抱えられ、肩甲骨を舐められ噛まれる。
「…っい、ひあっ…あっあ」
「――東郷…」
 色っぽい声と、ちゅっと濡れた唇の離れる音。どうやら先生は聴覚からも俺を襲う気らしい。
 やばい。たまらない。
 慌てて声を殺そうと、シーツに顔を埋めると後ろ髪を掴まれて引かれた。右耳をしゃぶられ、穴に舌を突っ込まれる。
「……我慢すんの、ナシな…っ」
「―――んんっ…!!」
 固く唇を引き結ぶと、顎に手を掛けられた。親指で唇の隙間を割ってくる。そのまま、強く穿たれた。
 腰から一気に快感が上ってくる。堪らなくなってシーツをきつく握り締めた。こうしたって快感が引くわけじゃないけど、何かに掴まらなきゃ耐え切れそうにない。
 …というのに。
 くぉの、ど変態め…!
 先生が腰を揺らしたまま、前に手を回してきたのだ。モロに存在感をアピールしている人のものを緩やかに扱く。その、緩やかな手の動きがもどかしい。
「……っあ、……あ…はっ」
 俺の喘ぎ声を聞いて、背後で小さく先生が笑う声がした。不審に思って肩越しに振り返ると、頬にキスされた。
「……な、に…?」
「気持ちいい?」
 俺が無言でいると、先生の手の動きが止まった。
「……あ…?」
「…気づいてねえのか?」
 先生が楽しそうに教えてくれた。
「お前自分から動いてるのに」
「―――!!」
 先生の回答に、俺は目を見開いた。慌てて逃れようとするも、腰を掴まれて引き止められた。爪の先まで一気に血が巡るのが分かった。恥かしくてたまらない。
「や、ちょっ…離して…」
「逃げるのも禁止」
「ちょ、待っ―――」
 
 逃れられない。
 追い上げられる。ゆっくりゆっくり上りつめてく。
 嫌じゃないけど、怖くなる。そっから先に、行っても平気なのかと不安になる。
 自分じゃない自分が出てくる。先生が引っ張り出してくるのだ。何度も何度も。
 その度に、名前を呼ばれて引き戻される。


「……………涼太…っ」


「っああああああ!」


 名前を呼ばれただけなのに。

 
 今までいちばん感じてしまった。






 面白い遊びを発見したかのように、先生がぐったりしている俺にキスを降らせながらにやにやする。
「…涼太」
「………ッ」
 マジ趣味悪いんですけどこの人っ。
 俺が涙目で睨み上げると、先生が汗に塗れた俺の前髪を払った。
 くそ。余裕見せやがって。
 悔しくなって、俺は先生の余裕を無くさせる呪文を思いついた。
 にっこり見上げて言ってやった。


「…すき」


 先生があんぐり口を開けてから、ベッドから転げ落ちたのは、言うまでもない。










<END>




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 特に印象に残らない、というのが第一印象だった。
 それは出会って2日目の今も変わらない。

 俺の右斜め前に席を構える奴の広い背中を睨みつけて、俺は頬杖をつきながらペンをくるくる回していた。教壇では、それマジで将来役に立つ?って胸倉掴んで聞きたくなるような眠い古文の授業が繰り広げられている。
 ペンを回したまま、ふと机の上に置いたままの自分の右手に目をやる。その手の平には、紛れも無い俺の文字で『腹』という呪文が記されている。そして、更にその呪文が示している通り、現在俺の腹の上には奇怪な謎々が踊っているのだ。

『月、数学テスト』
『火、保田ゴールで失神』
『水、保田のノートを取ってやる』
『木、渡部唯奈妊娠。××市で山火事』
『金、英語のノート集める』
『土、千早に説明を受ける』
『日、24時にリセット?』

 全く持って意味不明。今週のスケジュールだとしても、自分の裸に直に書く理由も不明だし、内容も理解不能。
 しかも、謎々はこれだけじゃなかった。
 制服のシャツの下、俺の心臓の真上。
 めちゃくちゃ乱暴だけど、切羽詰ったような、必死さが伝わってくる文字。
 無意識に、その部分のシャツを握り締めて、俺は机に額をぶつけた。

『6週目、千早を好きになる』

「……………………っ」


 何これ何かのバツゲーム!?
 いや、ていうか記憶ないんですけど!?つかなんで千早!?一瞬誰だったっけって考え込んで今朝遅刻しかけたし!
 しかもなんで断定してんのこれ?いや、それ以前に俺千早のこと何も知らねえし、それ以前に千早男だしっ。

 シャツを握り締めたまま、ちょっと顔を上げて、右斜め前の背中を見遣る。
 ……退屈そうな背中。
 既に向こうの学校で習得済みなのか、上の空という感じがありありと伝わってきた。その千早の肩が揺れた。欠伸でもしたのかも。見た目真面目そうなのにな。変なの。
 一人で密かに笑っていると、突然背後から頭をはたかれた。
「あだっ」
 俺の悲鳴に、全員がこちらに注目したのが分かった。頭を擦って恐る恐る俺を殴った犯人を確認すると、古文の教師だった。
「何にやにやしてるんだ長谷川。集中しろ集中。今何読んでるか答えてみろ」
「あー、えーと…」
 慌てて教科書を繰るものの、分からずあたふたしていると、斜め前の千早が自分の教科書を、俺に見えるように立てて見せた。
 あ、超イイ奴!
「……う、雨月物語…?」
「の、中の?」
「き、菊花の約…?」
「それは『ちぎり』と読む」
「はあ…」
「親友との再会を果たすために、遠く離れた敵陣に監禁された男が、魂だけでも飛ばして会いに行こうと自害して約束を果たすという話だ。軽薄な友情に意味はなく、信義の厚い友情は危機に於いてこそ真価が問われるということだな」
 オチ、言っちゃったよこの人…。
 俺が先生に残念な眼差しを送ると、先生は俺の席を通り越して、千早の後頭部をはたいて言った。
「クラスメイトを助けるのは結構だが、もっと別の機会に助けてやれ」


 古文の授業が終わると、俺は立ち上がって千早の席に向かった。千早は律儀に古文の教科書を揃えて、机の中に仕舞うところだった。
「…さっきは、サンキュ」
 俺が声をかけると、千早が驚いたように、机の横に立った俺を見上げた。そしてふっと柔らかく笑む。
「――どういたしまして」
「悪かったな、俺の所為で怒られて」
「別に。気にしてないよ」
 人のよさそうな笑顔を向けられ、俺はちょっと安心した。ふと右手を見る。
 謎の呪文。
 千早に聞けば、何か分かるかも…
 ちらりと頭の片隅で、そんな考えが掠めた。
 …でもなあ。絶対引くよな。いや、俺なら引く。100パー引く。
 俺が無言で右手を開いたり閉じたりしているのを見て、千早が尋ねてきた。
「…右手、どうかしたの?」
「え、あ、いや…」
 慌てて右手を背中に隠すと、先ほどの穏やかな千早から一変、突然席を立って俺を見下ろす。
 う、思ったよりこいつ背高い。
 思わず後ずさると、千早が俺に詰め寄った。
「右手、見せて」
「いや、無理」
「何か書いてあるんじゃない?」
 千早の的確な指摘に、俺は思わず口ごもった。すると、千早があっさり俺の手首を捕らえた。
 その瞬間、何故だかかっと全身が熱くなった気がした。

 ――なんだ?
 こいつに、触られただけで?
 いやいやいや、有り得ないよ。こんな急に心臓がうるさくなるとかも、きっとなんかの間違いだって。あの変な文字見て惑わされてるだけだろ。
 大体俺ホモじゃねえし。男にドキドキするとか、ないから!

 俺は慌てて千早の腕を振り払うと、俺は誤魔化すように言った。
「何もねえっつってんだろ!ほら、次数学だろ?テスト勉強しねえとヤバイぞっ」
 俺のその言葉を聞いた途端、千早が目を見開いた。
 その、彼の表情を見て、俺は眉を顰めた。

 …なんだ?何をそんなに驚いて…

「…なんで、テストのこと、知ってるの…?」

 …しまった。

 俺は必死で誤魔化すことにした。
「…前に益田が言ってたじゃん」
「嘘だ」
「…お前が転校してくる前に言ってたんだって」
「抜き打ちのはずだ」
「はあ?何の根拠があって…」
 意外に食い下がる千早に、俺は面食らってしまった。
 そんな俺たちのやりとりを見ていたのか、突然保田が俺たちに声を掛けてきた。
「数学、テストあんの?」
「え、あ…」
 部外者である保田にまで漏れてしまったことに、俺は益々焦った。
 なんか、すっげえややこしくなる気がする。止めないと、と思った時には遅かった。
 保田が、クラス中に聞こえる声で告げたのだ。
「なあ!今日益田のテストあんだってよ!」
「は!?マジで!?」
「どこ!?範囲どこ!?」
「やべ、俺教科書忘れたー」
 一気にざわつく教室に、俺は項垂れた。
 やっべー、これもう俺の無意識落書きの戯言だなんて告白できる雰囲気じゃなくなってきたよ…
 俺が青い顔で突っ立っていると、俺の隣に立った千早も、遊ぶのを止めて机に向かって勉強し出したクラス連中を呆然と眺めていた。
 そして、その日、本鈴前から席について勉強している俺たちを見て、益田は目を丸くしてから言った。

「…今日テストをする予定だったが、諸君がそんなに真面目に自習してくれているなんて…感動した」
 益田はテスト用紙を配らずに続けた。
「ふむ、今日はテストを止めて、先に進むとしよう」
 途端、クラスからは非難の嵐。

 でも、その益田の台詞を聞いて、呆然としたのは、俺と千早の二人だけだった。









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 …どういうことだ?
 益田の奴、本当にテストする予定だったってこと?

 俺は制服のシャツをぎゅっと握り締めた。
 …いやいや、有り得ないってば。偶然だろ、偶然。そうだ、益田って結構気紛れでテストしたがるし。
 …ここに書かれてることが本当に起こるなんて…そんなん現実じゃ有り得ない。

 それにしても気になるのは、授業前、呟いた千早の台詞。

「……変わった」

 って何が?って聞く前に、益田が席に着くよう訴えたので、その解答はもらえなかった。
 つか、なんか変だよな?あの転校生。見た目普通だけど、なんか諦観してるっつーか、老けてるっつーか…。あ、ひょっとして留年してたとか?まあよく言えば大人っぽいんだろうけど…
 なんか、気になるな。
 いや、別に変な意味じゃない。落書きを信じてるわけでもない。
 ただ、なんか、放っとけない感じがするんだよな…

 
 数学の授業が終わった途端、千早が急に振り返ったので、俺はぎょっとした。
 なんか深く追求されても困るので、慌てて移動教室の用意をしていると、千早が席を立ってこちらに話しかけてくる前に、俺のまん前に座る保田が素早く振り返った。
「おい、長谷川〜。テストなかったじゃん。吹いてんじゃねえぞコノヤロウ。貴重なオレの休み時間を返せコノヤロウ」
「知るかよ。勝手に勉強し出したの、そっちだろ」
「なんだよ、お前の意見を尊重してやってのオレの行動を無下にしたんだぞお前は」
「だから知らねえってば」
 俺が益田と話してる内に、千早は俺に話しかけるのを諦めたらしい。良かったと内心ほっとしていると、保田がその俺の様子を見て言った。
「…そういやさっきお前、転校生と揉めてなかった?」
「へ?あ、いや、別に…」
 俺が濁すと、保田がぽつりと言った。
「…なんかアイツ、存在感ねえよな。転校生のくせに。前からこの席でした、みたいな感じで違和感ねえっつーか…」
「…ああ」
 確かに、それは何となく感じ取れていた。
 移動教室の際も、誰かに道を教えてもらうことなく、迷わず辿り着いていたり、クラスメイトや教師の名前を覚えるのも早いのだ。
「……やっぱ留年?」
 俺が呟くと、保田に突っ込まれた。
「5月から留年ってのも変な話だけどなっ」
 

 放課後、俺が下足室で履き変えていると、背後から声を掛けられた。
「長谷川」
 振り返ると、立っていたのは千早だった。
 …ほら。もう俺の名前覚えてるし。単に物覚えが良いだけか?
「…なに?」
「一緒に帰ってもいい?」
 …なかなか積極的な男子だ。俺は胡乱気に千早を見つめた。
「…別にいいけど。お前家方向どっち?俺チャリ通なんだけど」
「川沿いの方。徒歩だから平気」
「……あっそ」
 出来るだけ千早とは関わりたくなかったのだが、仕方無い。無意識にシャツを握り締めていると、後ろから背中をどつかれた。
「よっす!長谷川!今帰り?お、転校生も一緒?」
 明るい笑い声と共に現れたのは、部活に向かう途中らしい保田だった。
 俺が叩かれた背中を擦りながら、保田を睨み付けると、彼は意に介さず続けた。
「しっかし、やるなあお前も!もう転校生たらしてんのかよっ!ラブラブだなおい」
「はああ!?」
「古文の時も助けて貰ってたじゃん。いやあ、もてる男は違いますな!」
「何言ってんだお前ほんとちょっと顔貸せ。6発くらい殴らせろ」
 今日の俺にその手の冗談は通じない。つか止めて欲しい。シャレになんねえことが書いてあるんだからここに。
 俺が保田に向かって低く凄んでいると、千早がいつの間にか下足室出入り口の方に向かっていて、俺は慌てて声を掛けた。
「千早」
 俺の声に、千早が肩越しに振り返った。
 
 一瞬、垣間見えた千早の表情。
 痛そうな、辛そうな表情。
 
 でもそれは、俺がもう一度声を掛けた時には消えていた。
「…千早?」
「…ごめん。用事思い出したから、やっぱり先帰るよ」
「え?」
「じゃあね。また明日」
「…ああ」
 手を上げて、爽やかに去る千早を見て、保田が唸った。
「やっぱりなあ……」
「なんだよ?」
 俺が唸る保田を見ると、彼は腕を組んで首を傾げた。
「前々からアイツ、クラスに居た気がするんだよなぁ…」
 そんな馬鹿なと、俺は保田の言葉を笑い飛ばすことができなかった。
 何故なら俺も、そんな気がしていたからだ。 



















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 徹夜明けで、ようやく爆睡出来ると、ふらふらになりながら帰路についた金曜の午前5時。
 マンションの鍵を開けて、そのままスーツ姿でベッドにダイブした。んで、そのまま死んだように眠り続けて6時間後。
 しつこく何度も鳴らされるチャイムの音で、深い眠りから引き摺り出された。重い目蓋を1ミリくらい開けて、手探りでケータイの姿を求めるが見つからない。あ、鞄の中に突っ込んだままだった。仕方がないので、ベッドサイドのローテーブルの上を探る。目的の目覚まし時計ゲット。顔の正面に持ち上げて、薄目で確認。まだ11時じゃん。俺今日は日曜の12時まで眠る気満々なんだ。邪魔すんなっつの。
 再び、眠りにつこうと思ったのに、やっぱり止まないチャイムの音に邪魔されて、苛々してきた。
 誰だ一体。人の睡眠邪魔する奴は。
 一言文句言ってやろうと、なんとかふらつきながらベッドを降りて、玄関に向かった。勢い良く開け放つ。

「うっせーー!!新聞なら全部取ってるからいらん!!」

「どうもー!こんにちは!お困りじゃないですか!?今お困りですよね!?」

 目の前に飛び込んできたのは、真新しいスーツを着込んだ大学生くらいの若い男だった。両手にたくさんの資料を抱え、度のきつそうな分厚い黒縁眼鏡に、胡散臭げな黒髪七三。

 …………怪しい…

 俺が無言で静かに扉を閉めようとすると、その若くて怪しいセールスマンは、意外にも俊敏な動きで、俺の部屋の完全封鎖を阻止しやがった。隙間に革靴を挟み込んだのだ。
「ちょっと!なんで閉めるんすか!?怪しくないっすよ!高宮さん!」
「怪しいわ!!なんで俺の名前知ってんだよ!?」
 うちは表札を出していない。俺が怒鳴り返すと、そのセールスマンはにこにこして言った。
「そりゃ調査済みですから!お困りですよね?」
「ああ、今正に困っている!お前の所為でな!」
 正直な気持ちを吐露すると、隣の部屋の扉が開いた。強面の中年男性が顔を覗かせて、扉を挟んで押し問答する俺たちを見て怒鳴った。
「うっせーぞ、高宮!!」
「…す、すいません…」
 隣人にまで呼び捨てで怒鳴られ、意気消沈した俺に、セールスマンが全く挫けた様子もなく嬉しそうに言った。
「ほら、近所の皆様にも迷惑ですから。とりあえず中入りましょう」
「…お前が言うな」
 くそ。3週間振りの休日だったのに、なんでこんな目に。


 余りにも怪しいので、部屋には上げず、玄関で応対することにした。とっとと追い返そう。
「俺徹夜明けなんだよ。めっちゃいい気分で寝てたんだよ。何邪魔してくれてんだよコノヤロウ」
「申し遅れました。僕、こういう者です」
 俺の文句をスルーして、そいつはスーツの胸ポケットから慣れたように名刺を取り出し、俺に差し出した。渋々受け取る。 

『恋人紹介所 営業部門 Mサイド担当 野木 誠司』

 俺は名刺を投げ返した。
「ああ!ひどいっ」
「結構です。お引取りください」
 我ながら丁寧にお断りすると、その野木とやらがあわあわして落ちた名刺を拾った。
「と、とりあえず話だけでも…」
「いりません。間に合ってます」
「いえ、間に合ってないはずです!僕ら恋人のいない一人暮らしの人のところに派遣されるようになっているんです!」
「何の自信!?つか、どういう情報網!?そっちのが気になるわ!!」
「それは企業秘密なので言えません」
「帰れ」
 にっこり命令すると、野木は玄関先でしゃがみ込んで、鞄の中から分厚い資料を探り出した。
「とりあえず資料だけでも見てください」
「見ない」
「うち登録制なんです。だから安心なんです。結婚紹介所の恋人探しバージョンだと思っていただければ」
「どんな営業の仕方だ!適当だなおい」
 しかも説明下手すぎだろ。絶対こいつ営業成績ビリだ。要領悪そうだし。
 俺のツッコミにも動じず、野木はしゃがみ込んで人の家の玄関先に資料を並べ始めた。
「今なら登録料も年会費も無料なんです。すっごくお得なんです。うちではまず、ビジュアル面とメンタル面の2パターンの中からどちら重視するかを選んでいただいてですね、その後細かく分類された項目の中から、自分好みの設定を選んで…」
「…分類?設定?なんかややこしそうだな…、いいよ面倒だし。マジで帰って。他の人のところ行ったげて」
「でも資料によると、高宮さんもう3年も恋人が居な…」
「だから!どっからの情報だっつの!!個人情報保護はどうなってんだこの国は!?」
「お仕事も最近お忙しいということで、益々癒される存在を求めていらっしゃるのではないでしょうか?そうですね、そんなあなたには癒しのワンコ系にゃんこ系、もしくは強引に引っ張ってってくれるやんちゃな大学生系などがオススメです」
「勝手に分析して勧めんな!しかも『ワンコ系』とかはともかく大学生『系』ってなんだ!?『系』いらねえだろ!ニセ学生か!?何曖昧にして………」
 言葉を続けることが出来なかった。
 玄関先に野木が広げたパンフレットに、目を奪われたからだ。
 俺は顔色を無くして、静かに野木に問うた。
「……………………それは、なに…?」
「うちに登録頂いているメンバーのプロフィールのファイルです。特別に少しだけお見せしましょうか」
「……ちょっと待て。男しか写ってねえぞ」
「はい。僕、担当Mサイドですから」
 ハキハキと野木が答えるのを聞いて、俺は頭痛を堪えながら、辛抱強く質問を重ねた。
「待て。まず、Mサイドの説明から入れ。担当エリアのことか?というか、男に男を紹介する会社なのかお前の所属しているところは」
「Mサイドというのは、メンズサイドのことです。勿論女性紹介もありますよ。でも僕は男性紹介専門なんです。担当エリアはあるようでないようなもので…」
 俺は野木を玄関に残して、素早く台所に向かった。瓶に詰め替えて並べてあった塩を引っ手繰ると、玄関でぼんやりしゃがみ込んでいる野木に向けて投げた。
「ぎゃーーーー!!塩が!!しょっぱ!!塩がっ」
「帰れ悪霊!!!!」
「人間です!酷いです、初対面の人間に塩を瓶ごと投げつけるだなんて!」
「初対面の人間に同性勧める方が酷いわーーー!!!」
「おかしいなあ。資料によると、高宮さんは男性もイケると…」
「だから何の、どこからの資料だっつーの!!」
 塩まみれになったまま、野木がファイルを繰ると、少しして低音で、あっと声を上げた。
「…すみません。漢字間違ってました。人違いだったようです…」
「………人、違い…?」
 余りにもあっさりした解決に、俺は勢いを殺がれた。

 ――徹夜明けの人叩き起こしておいて、人違いだとぅ?

 俺は玄関に置きっ放しだった革靴を掴むと、野木の塩塗れの七三を殴った。
「痛いっ」
「殴らせろ!あと5発くらい殴らせろー!」
「お、落ち着いてください高宮さん!殴るのは止めてください!」
「じゃあ蹴る」
「蹴るのも禁止です!暴力反対!」
「じゃあ寝かせろっ」
「はい、思う存分寝て下さって結構です。どうもお邪魔しました」
 涙目で立ち上がり、広げた資料を片付けて帰ろうと踵を返した野木の背広の首根っこを掴んで引き止めた。
 野木が、また殴られるのではないかと怯えた様子で、首根っこを掴んだままの俺を見上げた。眼鏡の奥の涙目が睡眠不足orその他諸々で欲求不満の俺の嗜虐心を掻き立てる。
「あのぅ〜…」
 戸惑った様子の野木が、俺の様子を窺う。
 俺はにっこり笑って言ってやった。

「新境地、拓いてみよっかな」

 俺の満面の笑顔に、野木は引き攣った笑顔を浮かべる。

 この際、新しい遊びを覚えるのもいいかもしれないな。







<END>





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 やっべ。
 風呂に入りながら、鏡を見て気づいた。
 明日体育サッカーじゃなかったっけ?
 
 この呪い、消えないんすけど…!!


 いつもより30分も長く風呂に入っている俺を不審に思ったのか、不意打ちで母親が風呂場の扉を開けやがるという思春期男子としてはトラウマにもなり兼ねない試練を与えられて俺は嫌な気分で部屋のベッドに伏せた。
 が、すぐに起き上がって、寝巻き代わりのTシャツを捲った。そのまま、机の上に広げっ放しだった何かのノートにペンを走らせた。

 念のためだ。念のため。

 ちらちらと自分の腹を見ながら、一言一句漏らさぬよう、ノートに取った。

「………」

 念のため。

 一応、心臓の上の言葉も記しておくことにした。何かこっ恥かしいけど、それにも耐えて、小さい字で書いておいた。

 よし。これで消えても安心。

 ぱたっとノートを閉じて、俺は再びベッドに寝転がった。が、すぐに跳ね起きた。
 いや!安心ってなんだよ!
 一人ツッコミしてみたものの、笑ってくれる奇特な人は、勿論誰もいなかった。

 …でも、なんかこれ、残しておかなきゃ駄目な、大事なことだった気がするんだよな。

 …まあ明日の体育の着替えの時に誰かに見られたら、確・実に!からかわれること1000パーだから、体の方は消しておくに越したことはない。
 かなり擦ってみたものの、流石にキレイには消えなくて、薄っすら残ったペンの跡の文字を指で辿ってみる。
 あんな走り書きの文字、突然授業中にテスト範囲教えられた時でも書かない…と思う。
 もう本当に、間際という切羽詰った事態だったんだろうか。
 一体何を考えてたんだ、日曜の俺。

 そして。
 
 なんで千早なんだよ、日曜の俺。



 火曜日、体育がサッカーとなった途端張り切り出したウザい保田を尻目に、俺はスニーカー爪先での運動場掘削作業に励んでいた。すると、突然ゴール前が騒がしくなったので、顔を上げると、何やら揉めている様子。野次馬根性丸出しで、覗いてみると、人垣の中央で誰かが倒れていた。体育教師が傍に突っ立っている生徒に指示している。
「木戸先生呼んできてくれ」
 木戸先生は保健医だ。誰か怪我をしたらしい。体育教師から指示を受けた保田が走り出した。そのとき、丁度人垣が割れたため、その怪我人の正体が判明した。
「大丈夫か、千早」
 教師の呼びかけにも反応がない。
 俺の隣に丁度島田が居たので、詳細を聞いてみた。
「何があったんだ?」
「…よくわかんねえ。保田と転校生がゴール前で揉めてたんだよ。なんか『危ないから』とか『何度も倒れるとこ見るのはごめんだ』とかなんとか転校生が言ってて、保田がそれに『はあ?』って感じで聞いてて、…そしたら誰かが蹴ったボールがゴールポストに当たって跳ね返ったのが、転校生の頭に直撃したみたい」

 俺は体操服の胸部分をぎゅっと掴んだ。
 …マジかよ。
 確か、火曜は…『保田ゴールで失神』だったはず。

 間違いない。
 千早は、ゴールで失神するはずだった保田を庇ったんじゃないだろうか。
 それで自分が倒れる嵌めに…。
 
 何故だか理由は分からないけど、千早は俺のこの腹に書かれた呪文を知っているのではないだろうか。


 
「……う…」
 低くうめき声を上げて、千早が寝返りを打った。そして、ゆっくり目を開いた。
「…千早…?」
 俺は座っていた丸椅子を引き寄せて、保健室のベッドに寝そべる千早の顔を覗き込んだ。
「…っ、長谷川…?」
 千早が小さく呻いて上半身を起こそうとするのを、俺は慌てて押し留めた。
「アホ、寝てろ。頭打ってんだぞお前」
「…平気。ただの脳震盪だから…」
「今まで気絶してた奴が断言するな」
 俺の言葉に、千早は小さく笑って、再びベッドに上半身を沈めた。大きく息を吐く。
「…保田は?」
「さっきまで居たけど、担任に呼ばれて出てった。…つーかさ、なんで保田と揉めてたんだ?」
「……別に揉めてないよ」
 千早が目を逸らす。俺は更に身を乗り出した。
「嘘吐け。お前が保田に、『危ない』って言ってったって聞いてんだよ。なんでだよ。なんで分かるんだよ?実際、お前ゴール前で倒れてるしさ。なんかおかしいだろ。お前もしかして…」
 俺がそう言うと、急に千早が体を起こした。そのまま、シーツを剥いでベッドから下りようとする。
「ちょ、おい!?」
「…平気。もう帰る」
「平気じゃねえだろ。顔色真っ青なんだぞ。まだ寝てろって!」
 慌てて千早の二の腕を掴んで引き止めた。そのまま、ベッドに再び座らせた。両肩を掴んで、立ち上がらせないよう千早の正面に回りこんだ。

 すると、突然、その手を払われた。

 あまりにも突然の出来事に、声が出なかった。
 千早も、そのまま気まずそうに俯く。
「…ごめん、あの、急に触るのは、勘弁して」
「え…?」
 もしかして、潔癖症とかなのかな。軽くショックを受けつつ、俺は丸椅子に座り直した。俯いたままの千早に声を掛ける。
「…ごめん」
「…なんか、サッカーする前にゴールがぐらついてて安定悪かったからさ、だから危ないかもって話してただけだよ」
 取り成すように説明する千早に、俺は昨日からもやもやしたままだったものを吐き出した。
「…じゃあ、昨日の数学のテストで驚いてたのは…?」
「……急にテストだったからびっくりしただけだよ」
「嘘だ。そんな驚き方じゃなかった」
 俺が詰め寄ると、千早がようやく顔を上げた。

 諦めたような表情。
 そうだ。この時、俺はようやく理解した。
 千早は、諦めている。
 何かは分からない。
 でも、確かに、千早は諦めているのだ。

「…長谷川が、僕のことを信じてくれても信じてくれなくても、結局は変わらないんだよ」

 千早が顔を歪めた。

「なんで気がつかなかったんだろう。いくら変えようと努力したって、結局は元に戻るだけなのに」

 今にも泣き出しそうな千早の表情に、今まで感じたこともないくらい、生まれて初めてだと言っても過言じゃないくらい、胸が締め付けられる。

 なんでこんな寂しそうな表情するんだろう。
 なんでそんな諦めてんだよ。
 なんで初めから、無理だって決め付けてんだよ。
 
 俺は立ち上がって、ベッドに座ったままの千早の胸倉を掴んだ。正面から睨みつけると、千早が驚いたように俺を見つめた。

「――お前、未来が分かるんじゃないのか?」

 俺の言葉に、千早が目を見開いた。
 が、すぐに諦観の滲む笑顔を拵えた。
「…なんで?」
 千早の問いに、俺はすぐに答えた。
 右の手の平を、千早の眼前に晒す。
 更に、覚悟を決めて、制服の裾を捲った。まだ薄っすら残るペンの跡を、千早に向けて曝け出した。
 千早が目を瞠る。
「コレの意味、お前なら分かるんじゃないのか?」
 千早が、静かに俺の腹の呪文を指でなぞる。背筋に、ぞくりと表現しにくい感覚が這う。
「…自分で書いたのか」
 千早が肩を震わせて低く笑った。
「…それなら信用せざるを得ないもんな。考えたな」
 さも可笑しそうに笑う千早に、俺は眉を寄せた。
 その時。

「長谷川、千早起きたかー?」
 廊下から保田の声が聞こえてきたので、俺は慌てて制服を戻した。丸椅子に座り直す。
 すると、千早が立ち上がった。そのまま、俺の横を通り過ぎて出入り口に向かう。
 肩越しに振り返って笑った。
 諦観ではない、と信じたい笑顔。

「やっぱり、君を選んだのは間違いじゃなかった」 

















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